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【追記と修正あり】「学校のチャイム」、誰が作ったの?

 今回の記事はトリビアルな内容です。「学校のチャイム」として知られる「ウェストミンスター鐘」について語ります。
 「学校のチャイム」は現在、放送装置に組み込まれたPCM音源の再生が主流です。一方、1950年代は「ミュージックチャイム」装置と呼ばれる金属打鐘式のチャイム装置が一般的でした。1980年代後半にTOAやナショナル等のオフィス向け音響装置メーカーがPCM組み込みの装置やメロディカード装置を開発したことでPCM化が進みました。なお、現在でも「ミュージックチャイム」装置を利用するオフィスや学校もあるようです。
 先日、中止になった第98回コミックマーケット向けに『「ウェストミンスター鐘」の音響誌』を出したのですが、
www.melonbooks.co.jp
 そこでイギリスのビッグベンの時計鐘がヨーロッパの時計産業と国際的時計市場の中で時計鐘として定着した「欧米列強編」と、20世紀初頭の日本に伝来し、1950年代の日本でサイレンに代わる時報装置として爆発的に波及した「戦後日本編」の2編構成で波及過程を叙述しました。
本記事の結論を先取りすると、日本のオフィスや学校に「ウェストミンスター鐘」を定着させた「ミュージックチャイム」装置は1930年代に既に原型があり、誰か一人の発明者に還元しえません。

 「学校のチャイム」と呼ばれる「ウェストミンスター鐘」に関する記事をウェブで散策すると、発明家の石本邦雄さんに端緒を求める内容の記事にしばしば出会います。以下はその一例です。
『産経こどもニュース』, 2013年4月25日,「イギリスの時計塔とと学校チャイムの不思議な物語」
https://www.sankeikids.com/doc_view.php?view_id=693
根源を探ると2007年3月26日 (月) 07:27編集以降のWikipedia記事「チャイム」が発端のようです。それ以前かつWikipediaの同記事以外に個人に還元した記事はウェブアーカイブされていないのか、見つけられませんでした。
ja.wikipedia.org

 一方、『朝日新聞』2007 年 10 月 01 日 「(疑問解決モンジロー)チャイム、なぜキーンコーン?」は石本邦雄さん以外に井上尚美さんと真島福子・宏さんの3人の名前を発案者に挙げています。井上さんと真島さんはほぼ同時期の1954年に「学校のチャイム」を打鐘する「ミュージックチャイム」装置*1を考案、あるいは発明しています。一方の石本さんは先述の『産経こどもニュース』では1963年に「発明」したと述べています。石本さんはちょっと出遅れたわけです。ご自身の他の証言と突き合わせると*2

1957年には組織を改め、株式会社鯉城時計製作所を設立。そして、1963年、現在の工場がある五日市に移転。同社の受託業務は木工から板金へと徐々に移行し、ミュージックチャイムの製作も始まった。

とあり、1963年頃に製造開始が始まったのは確かなようです。しかし、『産経こどもニュース』は

20才になった昭和38(1963)年頃、時計メーカーに相談されて「時報チャイム設備」を制作した時に、そのメロディーが鳴るようにしたところ、のちに全国の学校へと広がったのです。

と記載しています。Wikipediaの記事は現在も石本さんの功績と記述しています。産経新聞の書き手もWikipediaを参考にしたんでしょうか。
また、ナイーブに採用した下記のサイトもあります。精工舎は戦前からオルゴール時計*3の生産を得意とし、戦後も「ウェストミンスター鐘」をラインナップにしたオルゴール装置を販売しています。内田洋行はライバル企業との販売競争がある。Victorや日本コロムビアのような大手レーベルは、ミュージックチャイム装置を組み込む、文部省基準をクリアした学校放送システムを一式で揃えていました。大手企業に還元する英雄論ではありませんが、各企業の持つ文脈が複合した先に石本さんのミュージックチャイムが見いだされた。
sites.google.com
 間違う間違わない以前の歴史叙述への態度が問題です。史料批判ができないマニアによる叙述の危うさや、歴史修正主義との関係はいずれ何かの機会で書きたいところです。例えば『サブカルチャーと歴史修正主義』等、マニアの予防線は批判されているわけですから、アンテナの感度の低さはもはや許されません。

 さて、こうした「神話化」言説は珍しいものでもありません*4。販売網が広がり、各地でベルやブザーからミュージックチャイムの交換があったのは事実かもしれませんが、過去の証言で想定する「日本全国への波及」と言うのは困難です。
 しかし、これは石本さんの功績を無にするものとは言えません。「大戦と音響メディア」というもっと大きな文脈でとらえる必要があります。ベル、ブザー、サイレン等の戦前から使われてきた音響メディアの形成する音に過去の辛苦を感受し、それを克服しようとした技術者による運動と言い換えられます。それだけ、音と過去の悲惨な記憶の結びつきは20年弱経ても強かった。

 では、井上さんか真島さんのどちらかが先駆者?と追及したくなりますが、先に1950年代の東京の音響メディアについて確認しましょう。
 1940年代を通し、東京府各自治体は街頭サイレンを設置していました。これは街頭時報と防空警報を兼ねたもので、それ以外も国民精神総動員運動の一環で国家慶祝行事や天皇家の記念日にサイレンを吹鳴していました。1945年の敗戦で防空警報の役割が無くなり、東京の街頭サイレンは時報吹鳴機能のみになります。一方、街頭サイレンに代わる音響メディアとして1950年にYAMAHAがミュージックサイレンを開発し、銀座のYAMAHA本社に同装置が設置されます。また、森永時計塔に黛敏郎作曲の時報鐘が設置され、1950年代の東京は音楽時報が台頭し始めた時期と言えます。しかし、鐘の鳴り方に音楽性を持たせた時計鐘は1930年代から既に設置されていました。東京駅前の山田耕筰による時計鐘や早稲田大学等に既に設置されており、1950年代にいきなり始まったものでもありません。
 「サイレンから音楽へ」のムーブメントは1950年代前半の官公庁、公民館、オフィスで始まっていました。その音楽が「ウェストミンスター鐘」です。学校鐘の交換ムーブメントはその一環と言えます。東京の公立学校は1953年頃から既にサイレンやベルから「ウェストミンスター鐘」の交換が始まっています*5。1950年代の東京に見られた「サイレンから音楽へ」のムーブメントを支えたのが前述の「ミュージックチャイム」装置ですが、1933年に本間清人さんが執筆された『家庭用実用品の作り方』の「ウェストミンスター寺院のチャイム」に既に原型が見られます。この著作は『少年技師ハンドブック』シリーズの一環で、同シリーズの書籍は1930年代から40年代にかけての日本のテックギークの少年たちにとって一般的な教科書だったと言われています。同記事や1950年代の「サイレンから音楽へ」ムーブメントを考慮すると、井上さんや真島さんがイチから考案、開発したとは考えにくい。
 誰か一人の発明者を見つけ出すより、「ウェストミンスター鐘」が1950年代に持っていた表象や文脈を考えるほうが有意義です。
 
 今回はここまで。深く掘り下げると「チャイム」にまつわる文化史やメディア史の論点が出てきますが、それは小冊をお読みください。

*1:マジマ社の商品名は「ミュージカルチャイム」

*2:https://www.nc-net.or.jp/knowledge/mag/trajectory/45.html

*3:「服部の音時計」と言われた。

*4:一方の真島さんも他の新聞記事の取材に対し、自らが「ミュージカルチャイム」の発明者であると述べている。後述するが、「ミュージカルチャイム」装置は1930年代に原型が登場しているし、1954年、「ミュージックチャイム」は光星舎等によって販売されていた。

*5:『毎日新聞』1954.04.12「月島第二小に併設-明石小にチャイム・オルゴール設える」