過度に適度で遵当な

在日日本人

【追記】明治政府と時報鐘

近代国家として語られる明治政府が発足したころ、明治政府が幕藩体制から引き継いだ時報鐘や時報太鼓をどう扱っていたのか、基礎的な調査はされていないように見えます。笹本(1990)は幕藩体制下の時報鐘は各都市や村落を含め日本の各地にあったと言います。どうなってしまったのでしょう。政権以降期に焦点をあて、明治政府と時報鐘の関係を調べてみます。

1 江戸時代の時報鐘や時報太鼓について。
江戸、川越、大坂等の城下町に時報鐘があったことは周知の事実です。一方、18世紀の初頭まで、東海道等街道筋の宿場町に時報鐘や時報鼓は行き届いていなかったようです。
1710年 or 1711年、関東(幕府)は時報鐘のない東海道の宿場町に、時報鐘、時報鼓、時報香の設置を指示する。夜半も拍子木で時刻を知らせるよう触書を出します。

東海道美濃路迄道中宿々にて只今迄夜中時々不相知知處も有之に付、向後軽旅人迄も存候様時を打たせ可申旨、御老中被仰渡候、依之東海道筋御料宿々にて時之鐘有之ざる處は常番を差置、夜中拍子木時打候(中略)時之鐘無之宿者、右之心御申付可然候
『令條秘録 八』(句読点はブログ著者。フォントの問題で漢字を現代字に置き換えたものもある)

宝永年間か正徳改元後は定かではないもの、徳川は宿場町に時報システムの設置と維持を下命しています。江戸時代中期には時報鐘が旅行者にとって不即不離の存在に位置づけられていた様子がうかがえます*1

2 幕藩体制の崩壊と時報鐘・時報太鼓
19世紀、日本の各地に時報鐘や時報太鼓が設置され、それらは藩によって運営費が賄われていました。明治政府の廃藩置県後も時報鐘や時報鼓は引き継がれ、各地方官が官費で運営していました。東京も江戸以来の時報鐘以外に宮内省による時報鼓が設置されていました。
ところが、東京の時報鼓は1872年5月20日に廃止されます。東京だけではなく、1873年6月24日、明治政府は時報鐘や時報鼓と堂舎の新築営繕等運営維持費用支給を打ち切ります。

各地方ニ於イテ報時鐘鼓並所属ノ堂舎共新築又ハ営繕等官費支給ノ儀ハ都テ相廃止候事
但民費ニテ在来ノ堂舎其儘設置候儀ハ不苦候尤都合ニヨリ取毀候節ハ入札ヲ以テ払下ゲ其代買明細調書相漆大蔵省ヘ上納可致事
『明治六年六月二十四日第二百二十三号布告』

明治政府として時報鐘や時報鼓は使いませんが、民間による運営か、取り壊して大蔵省に上納金を要求しています。体のいいリストラです。

ですが、明治政府の全行政機関が時報鐘や時報鼓を廃止したわけではなかったようです。函館、札幌、根室に北海道開拓使が官費で運営する時報鐘や時報鼓が設置されていました*2

明治五年十二月廿六日 開函第百二号庶務掛ヘ達 当庁前へ時辰鐘を掲ぐ 
『開拓使函館支庁布達々留』*3

明治六年一月一日 開函民第一号函館戸長ヘ達 一月一日より毎夜時鐘を打たしむ 
『開拓使函館支庁布達々留』

明治六年一月十八日 開函第八号達民第六号函館区中ヘ布達 時辰鐘を改め太鼓を置き時を報す 
『開拓使函館支庁布達々留』

明治六年十二月二十九日 開札無号布達 本庁報鼓を廃し時鐘を用ゆ 
『開拓使布令録』

明治七年一月四日 開札第一号各局ヘ達 本庁報時鐘打方改正 
『開拓使布令録』

明治七年一月二十五日 開札第十一号各局へ達 一号札幌群市在正副戸長へ達 本庁報時鐘を廃し太鼓を用ゆ 
『開拓使布令録』 

明治八年四月七日 開根室第十一号副戸長へ達 時報鐘板を用ゆ 
『開拓使根室支庁布達全集』

明治八年八月三十日 開札第百二十五号各局院へ達 本庁報時を廃す
『開拓使布告録』

明治八年十二月十三日 開札番外 各局院民事局、札幌市在区戸長へ達 本庁時報鼓 本庁罹災後廃止
『開拓使布告録』

明治十九年八月二十四日 北根告第六十七号告示 根室に報時鐘設置
『開拓使根室支庁布達全集』

と、頻繁に時報鐘や時報鼓の設置改組を行っていた様子が読み取れます。

また、天候と気象を測定する官庁である気象庁、気象業務と密接に絡んでいる消防本部が時報鐘を有する例もありました*4

3 明治初頭の民間の時報太鼓
明治政府の『官報』によると福岡県赤間地方の各村落は時報鼓を農繁期の作業の目安にしていた記録が残っています*5

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図1 「農家稼業報時鼓略歷(福岡縣)」

【以下追記】
農村部の昼食や間食休憩は周囲の農業従事者と共同でとられる。赤間地方の時報鼓も農事休憩を報するために設置されたと見られる。一方、この農事休憩は明治政府の時刻で差配される。これは農村部に明治政府に権威付けられた定時制時刻の浸潤が読み取れる。明六改暦以降の農事休憩の時刻を研究することにより、農村部の定時制時刻受容の波及過程を分析できると思われる。ここで疑問が生じる。農村部に明治政府の。そもそも、明六改暦によって定時法がもたらされたとはいえ、その時刻で作業が差配される組織や集団は軍、役所、会社組織等の近代的組織に限定される。現代にいたるまで一般的な農場は日暮れと共に作業を終える。そのため、農業従事に限定すると江戸期以来の旧時法であっても不都合はない。当時の農村部にあった定時制で運用される組織は役所や学校等に限られる。明治20年代の進学率をみると、学校経由にのみ還元するのは必ずしも誠実な立場とは言えない。とすると、別のプロセスが考えられる。それは軍じゃないか。徴兵制軍隊の経験が農村部に定時制(即ち天皇の権威が保障する軍隊が、個々人のバイオリズムを解体して強要する時間)をもたらしたのではないか。

とすると、これまでの明六改暦言説は封建の徳川と開明の明治の分断を強調するためのものだった。しかし、実際の波及プロセスを考慮すると、徐々に浸潤していったと考えられる。明六改暦は分断ではなく、グラスルーツにとっては封建制解体の出発点と位置付けられるのではないか?
と、いうのはきっとどこかで議論されているのだろう。
【追記ここまで】

浦井先生の『江戸の時刻と時の鐘』と付き合わせると、廃仏毀釈運動による仏教寺院の排斥で、命脈を経たれる官営時報鐘鼓も多かったと指摘されています。しかし、時報鐘鼓の処分は廃藩置県後の明治政府による資産整理の面もあった。一方、北海道開拓使は『太政官布告』以降も設置を続けた。当初は「時辰鐘」、不定時十二支時刻で打鐘鼓した時報鐘鼓もあった。

すなわち、明治政府や明治政府の役人たちは時報鐘の機能に一定の評価をしており、仏教弾圧の文脈によってのみ時報鐘鼓の廃止が行われたとは、必ずしも言いがたい。ただし、明治政府が江戸期以来の時報鐘鼓の維持に積極的な理由を見いだせなかったとも言える。

時報鐘や時報鼓はその後、一部都市で軍のドン砲に引き継がれます。また、時報鐘は主に民間の担い手が新たに建造した例もしばしば見られます。1924年、モーターサイレンが国産量産されると、再び官による街頭時報が日本各地に広まります。
その話は西本先生や竹山先生がまとめられているので、そちらをご参照ください。

*1:笹本によると、15世紀末の城下町形成と武士たちの時間労働制定着を契機に、時報鐘が波及したと指摘する。

*2:以下引用の片仮名や漢字は適宜現代字に改めた

*3:明六改暦で本来ならありえない日付と言える。改暦の混乱で行政文書の修正は不徹底に終わった等が理由だろうか?

*4:帝国地方行政学会,1929,『現行沖縄県令規全集 : 加除自在. 第2綴』

*5:大蔵省印刷局,1875,『官報』,2722,266