過度に適度で遵当な

在日日本人

「愛の鐘」の昭和史 ① 戦後青少年問題と「愛の鐘」の普及

正午や夕方になると、町に流れる音楽。みなさんも聞き馴染みがあると思います。
あの音楽は自治体向けに開放されている地域防災行政無線を利用して流していおり、地域によっては、朝や正午、場合によっては夜にもチャイムを流すところもあるなど。また、音楽も「夕やけこやけ」だけではなく、「家路・遠き山に日が落ちて(新世界より)」「ふるさと」「七つの子」「エーデルワイス」など、多種多様なミュージックチャイムが用いられています。そうしたミュージックチャイムがいつごろから発展したのか、実際のところはよくわかっていません。
行政の言を借りると、「地域防災行政無線の試験」として説明されていることがあります。一方、自治体によっては帰宅促進あるいは時報として流していることを明記している場合もあるなど、その機能は自治体によってまちまちです。しかし、現在、自治体サイトに明記された機能別に整理すると以下の3種類に分類することができます。

① 純時報的鳴動
 …時報としか明記されていない場合
② 試験放送兼任鳴動
 …時報および試験放送の兼任が明記されている場合
③ 試験単純鳴動
 …地域防災行政無線の試験鳴動として明記されている場合

この地域防災行政無線(同報無線)は各地で整備されていますが、その由来は都市部と農村部では違う場合もあります。

農村部や地方などでは有線放送電話機能を継承して発展したものが多くあります。電電公社の家庭用回線*1の普及が遅れがちだった農村部では、こうした役所や地域内各世帯を結んだ村内・町内有線が有用だったからです。たとえば東京都奥多摩町でも20世紀の終わりまでは有線電話が活躍しており、現在の奥多摩町で整備されている地域防災行政無線の固定系と呼ばれるものは、その後継機能として整備されてきたものです。
そうした農村部では有線電話*2では時報やNHKのニュースを屋外スピーカーから聴取させることもあったことはおなじみだと思います。

さて、①~③で使用用途で整理しましたが、片方向の軸として地域防災行政無線が継承した諸元を、調査した結果をもとに整理すると3×3の分類表ができます。片方の軸は以下のA~Cです。
A 消防団サイレン
 …東京都以外の地方には消防官吏に類する行政消防組織は整備されおらず、行政管轄の地元消防団組織による消防機能が維持されてきました。実際に火事等の際にはこのサイレンを吹鳴させていたのですが、定期訓練でサイレンを流していた場合が多くありました*3
B 有線電話による時報
 …有線放送を経由してNHKや時報を流していた場合がありました。
C 愛の鐘/ミュージックサイレン?
 …戦後・独立回復にかけて都市部での青少年健全化が社会問題となり、それに合わせて地元婦人会や行政等が各地で設置したミュージックチャイムであり、それを「愛の鐘」と呼んでいました。いっぽうのミュージックサイレンは、空襲警報のサイレンを応用し、YAMAHAが戦後に開発した時報用機器を一般的にそう呼称していたものです。双方ともほぼ同時期に整備されたこと、そして時報的機能を有していたことからC分類に目される、としました*4

当初、この「愛の鐘」の存在を知るまでは、一般的に言われている「地域防災行政無線の夕焼チャイムは単なる試験鳴動から始まった」と考えておりました。そして起源は地方の有線放送で流していたチャイムであり*5、都市部はそれを配慮して夕方にのみ流すようになったのだろう、と。しかし、それはどうやら異なるようでした。この地域防災行政無線の定時放送は上記3つを包含して成立した異種同根の類で、それが地域防災行政無線の管轄省庁である郵政省あるいは総務省の政策を通して全国に広まっていったことがわかってきました。そのうえ、都市部の夕焼け放送は「愛の鐘」を一部継承し機能している、ということも。

今回の第1回、はこの「愛の鐘」が誕生、そして地域団体とメディアの旗振りによって全国に定着していった過程をものしたいと思います。

① 社会的背景
昭和20年から35年にかけて、凶悪犯罪とよばれる「強盗」「殺人」「強姦」「放火」の4者によって検挙される少年の数は、現在の10倍近くあったことが言われています*6。そうした青少年あるいは未成年の成長への悪影響を心配したと同時に、当時の都市商業の問題もありました。
昭和戦後、いわゆる娯楽産業に対する営業規制などの法令あるいは条例による規制は、ほとんど行われてきませんでした。現在とは異なり、未成年を相手にした終夜営業も都市の盛り場などでは広く行われていたのです。例えば中学生あるいは高校生がテッペンまわるまで、パチンコ屋や映画館、喫茶店*7に出入りするなど、よく見られたと言われています*8。そうした状況を問題視する組織や団体ももちろん存在し、とりわけ民法などでそうした青少年あるいは未成年の保護的地位にいる婦人がそれを問題視していました。また、全国紙の中にもこうした運動に賛同を示すものもありました。現在とは異なり、行政による規制が行き届いていなかった都市部の盛り場と、適切な関係を模索することが求められていたわけです。それをふまえ、青少年あるいは未成年に対する社会的保護が要請されていた時期でもあったと言えます*9
ざっくりと時代背景を述べてきましたが、ある都市を拠点とする婦人会から、音楽で青少年に時間を告げ、家へ帰るよう説得する、そうしたアイデアが出されました。1954年、当時日本で最も栄えていた商業都市は大阪市での話です。

② 「みおつくしの鐘」の誕生
1954年、青少年問題に関心のあった大阪市婦人団体協議会では、青少年・未成年の「夜遊び」への対応策として、「夜半の22時にチャイムを流す」という案が出されました。この案のもと、1954年10月に大阪市婦人団体協議会と大阪市青少年問題協議会大阪社会教育委員会は合同で「青少年に帰宅の時を知らせる鐘」委員会を設置し、この具体化に取り組んでいきます。200万円(当時)の建設費を寄付やカンパによってまかない、中之島にある大阪市役所の屋上に設置されることとなりました*10。5月5日の子供の日にあわせて除幕式が行われ、午後10時に「ウェストミンスター・メロディー」を編曲:朝比奈隆氏によるミュージックチャイムが吹鳴されることになりました*11。同時にNHKラジオ、新日本放送、朝日放送でも午後10時にこのミュージックチャイムを放送し、音を吹き込んだレコード、市内各所の寺院・教会でも同時に鐘を響かせ、市中でチャイムの音が行きわたるように配慮されていたそうです*12。この鐘は「みおつくしの鐘」の固有名称が与えられましたが、その後ひろく「愛の鐘」として知られることになります。これは、鐘のコンセプトに「母の愛を思い出してほしい」という望いを託していることがあったため、と考えられます。
社会的にも好感を持って受け入れられたようで、大阪市電の切符入れに「みおつくしの鐘」がデザインされたり、「みおつくしの鐘煎餅」なるお土産品も作られるなど、大阪の名物としても受容されたとか。また、テイチクと日本コロムビアから、この鐘を歌った「みおつくしの鐘」(作曲古関祐二 作詞サトウハチロー)のレコードが発売されるほどで、「みおつくしの鐘」の反響はかなりのものがあったと言えます。
その後、1年ほどで「みおつくしの鐘(愛の鐘)」は大阪市内だけではなく、大阪市によれば全国各地にも広がるようになったとされています*13。婦人団体協議会が発行した「みおつくしの鐘:建設の記録」には、旭川市、小豆島、琴平町、松山市、田川市もこの運動に倣い同様の鐘が設置されるなど、各地に広がっていたと記されています。

③ 「愛の鐘」の普及とメディアの運動
大阪で始まってから2年後の1957年、東京でも盛り場に「愛の鐘」を設置せんとする動きが始まりました。子どもをもつ婦人等によって構成された池袋母性協会が、同地で夏休みを前に「愛の鐘」を設置しようとした。これが、現在のところ確認できる東京での最初となっています。ところが、この試みは東京都騒音防止条例によって東京都衛生局から待ったがかなるなど*14、大阪市のように洋々とは行かなかったようです*15
その後の記事によると、池袋の吹鳴開始後は、協会員の努力もあわさってか、補導される少年が従来の半分になるなど効果があったとか*16
池袋の事例をもとに、目黒区の青少年問題協議会が1957年10月に地区内「愛の鐘」設置を決定するなど、23区にもこの「愛の鐘」が浸透していく兆しが見え始めます。実際に1958年から区役所屋上に設置した「愛の鐘」で朝昼晩3回、「トロイメライ」のミュージックチャイムの吹鳴が始まっています*17*18
こうした動きに呼応するように、毎日新聞は1958年10月16日から「愛の鐘を鳴らそう」というキャンペーンを開始させました。これは、いわゆる「不良少年」を「更生」し、社会復帰の手助けをしようとするもので、現場の補導記録から家庭環境、そして少年院で苦しむ少年たちへの支援の手など、青少年問題解決の一助を目指した連載となっています。タイトルにもあるように「愛の鐘」が青少年に対する親や社会の愛情の記号として用いられているいっぽうで、上記のミュージックチャイムとしての「愛の鐘」についても調査、全国推進を図っていくなど*19しています。こうした社会運動としての「愛の鐘」(以降は「愛の鐘運動」)、ミュージックチャイムとしての「愛の鐘」を各地に浸透させていく旗振り役として、東京では在京メディアが登場することになります*20
1958年11月に総理府中央青少年問題協議会は「愛の鐘」設置を全国目標にすえ、これで全国に「愛の鐘」設置が努力目標として制度拡散していきます*21。大阪での「愛の鐘」ラジオ放送にならい、ニッポン放送が午後10時にミュージックチャイムのマイク放送を開始し*22、大阪市の設置から3年で全国的な青少年問題への解決策として拡がっていきました。
さて、「愛の鐘」運動と「愛の鐘」設置を進めている毎日新聞は、1959年1月20日から「愛の鐘」の音楽を募集します*23。これは総理府中央青少年問題協議会を後援として毎日新聞社が主催した、既存の各ミュージックチャイムとは異なる、「愛の鐘」独自のチャイムを新作しようとするキャンペーンです。審査の結果、川崎市在住の男性が応募した音楽が一等に選ばれ*24、日本コロムビアのスタジオ楽団演奏のもと、ラジオ関東で午後10時に演奏されることとなりました*25
これが、現在の地域防災行政無線のミュージックチャイムでも「愛の鐘」として演奏されている音楽の原型にあたります*26
1959年から1960年には「少年や子供たちに帰宅を呼びかける」チャイムとしての「愛の鐘」は東京の各地で吹鳴されるようになっていきました。詳しい年月日は省略しますが、東京では渋谷、上野、東京タワー(!)、港区、北区、千代田区万世橋、世田谷区三軒茶屋など、盛り場や住宅街を問わず設置されていったことが記録に残っています。その後、1964年には時報として定着し冷ややかな視線を見せる記事も出る*27など、東京レベルでは6年ほどで生活に溶け込んでいる様子が伺えるでしょう。

こうして、大阪では民間主導で始まった「みおつくしの鐘」が「愛の鐘」となって各地に拡がり、東京で取組が始まった後は在京マスメディアの旗振りのもと、政府機関の諮問協議会の勧告に上がり、国策レベルの青少年問題解決策として拡大していったと言えます。



今回、戦後青少年問題からその解決策としての「愛の鐘(みおつくしの鐘)」、それが他の都市などに広まり、その背景に大手全国紙のキャンペーンがあったことをざっくり紹介してきました。次回「『愛の鐘』の昭和史②」では、1960年代の「公害の時代」と「愛の鐘」(「愛の鐘」と社会)、老朽化による撤去、そして地域防災行政無線の周波数解放と制度化について紹介したいと思います。

お気づきのように、今回の引用メディアはほとんど毎日新聞です。朝日新聞と読売新聞は記事の量が毎日に比べて少かく、また、情報量も小さいことからほとんど毎日新聞に依拠しています。「愛の鐘」運動を主導するメディアであっただけに取材も熱心だったのでしょうか。しかし、その状況も次回から変化を見せることになります。時間を1957年ごろに再び戻し、いよいよ1981年に東京練馬区から始まった地域防災行政無線の「夕焼け放送」まで時代を下っていきます。お楽しみに。

「愛の鐘の昭和史」については、こちらの内容を加筆修正のうえ、第94回コミックマーケットで頒布する「街頭時報の近現代」に書かせていただきました。ご興味の方は、ぜひお買い求めください。よろしくお願いいたします(2018年8月1日更新)。
おかげさまで、「街頭時報の近現代」は完売いたしました。現在、第2刷を増刷しております。第1刷に図版や記述を加筆、修正をしています。第95回コミックマーケットでも頒布を検討しています。スペースの当落がき次第、報告いたします。(2018年9月25日更新)

*1:現在はNTT

*2:有線放送とも呼ばれてきました

*3:中上健次の小説「一番はじめの出来事」にみることもできます

*4:実際調査したところ継承が定かではなかったもの、後者は行政による時報機能の整備の類者として勘案しています

*5:本多勝一の回想録にそうした記述があり、漠然とそう考えていました。

*6:反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ

*7:特殊飲食じゃないですよ!!

*8:現在の中学生あるいは高校生に対する観念とは異なり、就業開始年齢からすれば、現在は大学学部生あたりに類する社会的地位にいたと考えられます。

*9:新制学校制度による義務教育期間の拡張と中等教育にいる生徒数の増加、経済成長などによって自由になる時間とお金を入手した少年が増えた等、社会変動とその過渡期にあったことが原因にもあるように考えられますが、本企画とは関係がないので備忘録程度に。

*10:大阪市(1955)「大阪市政だより」第104号 pp.2

*11:大阪市婦人団体協議会(1956)「みおつくしの鐘 : 建設の記録」

*12:『毎日新聞』1955.5.6朝刊「卅万母親の祈り実る-子供守る“愛の鐘”完成す」

*13:大阪市(1956)「大阪市政だより」第116号pp.2

*14:池袋にあった東横百貨店の宣伝チャイムを使おうとしたのがどうもまずかったようです。

*15:『毎日新聞 』1957.6.27朝刊「騒音対策委で“待った”-夜の池袋に「愛の鐘」計画」

*16:『毎日新聞』1957.08.12 東京朝刊 警視庁:半減した補導少年-池袋…三週間の効果

*17:当時と現在では事情が違うにしろ、都市部でも日に複数回、ミュージックチャイムを鳴動させていたことがここからわかり、当初想定していた都市部・農村部説明は異なっていたことがわかります。

*18:こちらは群馬県安中市の事例と混同しておりました。渡辺浦人氏によるオリジナルメロディーです。訂正いたします。なお、鳴動時間は1日3回です。

*19:『毎日新聞』1958.10.30東京朝刊「警視庁:街に高まる“愛の鐘”運動-みおつくしの鐘、三年前に大阪に」

*20:もちろんそれ以前から「愛の鐘」は各地に広まっており、確認できるなかでは、旭川市、新潟市、福岡市、松山市、栃木県小山市などの地方都市でも「愛の鐘」が設置されていました

*21:『毎日新聞』1958.11.17「“愛の鐘”全国に-青少年問題協議会で取上げ、推進へ」

*22:『毎日新聞』1958.11.01朝刊「『愛の鐘』をニッポン放送で電波に」

*23:『毎日新聞』1959.01.20 東京朝刊 「事業:『愛の鐘』メロディーを募集」

*24:『毎日新聞』1959.03.10 東京朝刊 「 『愛の鐘』作曲-川崎の渡辺好章さんら入賞」

*25:『毎日新聞』1959.03.31 東京朝刊 「レコード:『愛の鐘』メロディー-吹込み」

*26:https://www.youtube.com/watch?v=D0CrGzMYKTo

*27:『毎日新聞』1964.08.19東京朝刊「葛飾区:愛の鐘のPRポスター-新宿中学生の作品」