過度に適度で遵当な

在日日本人

印象

劇伴音楽はそれだけでカットを象徴する物語を持っています。
純音楽の側からは低く見られることもある劇伴音楽です。しかし、自分のような芸術とは程遠い世界にいる人間からすると、物語をわずかな時間で表現するその構成は、わかりやすく受け入れやすい。

往年のアニメ映画「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」には後にカットされたシーンがあります。ヤマトが放射能除去装置を携えて地球に帰還し、地下都市のなかで待ちわびた人々の歓喜とともに迎えられる…というカットです。ファンの間では、このシーンを含めて削除されたカットを見ることのできるフィルムを「ゼロ号フィルム」とも呼んでいるそうですが、今では東北新社に残るマスターフィルムか絶版になった英語吹き替え版でしか見る方法はないそうです。
これはその後テレビ放映された「宇宙戦艦ヤマト2」の第3話にそのまま流用されているのですが、受ける感慨が全く違う。「さらば」では台詞もなにもなく、ただ「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」に収録されている「回想」という曲が流れるのみ、いかにも過去の回想という感を強くしております。ところが、「2」では、「夕日に眠るヤマト」の勇ましい音楽とともに、「ヤマト!ヤマト!」というガヤが挿入されている。


先に「さらば」で述べたこのカットは、全く台詞がないことで、劇伴音楽の持つ物語が強く浮き彫りにされています。ここで使われている「回想」という曲は、地球生還を前にして永遠の眠りにつこうとしている沖田艦長が、ガミラスとの戦争で亡くなった家族の写真と目の前に広がる地球を見つめ、「地球、か…。何もかも、みな懐かしい…」という名台詞とともに、使命を果たし終える…、という初代「宇宙戦艦ヤマト」屈指の名場面を象徴しています。常に物語の根底で流れている悲壮感とどこか苦味がつきまとう喜び、という私たちを魅了してやまない宇宙戦艦ヤマトのエッセンスが全てつまった音楽と言っても過言ではありません。

そういう曲が生み出す魔術は、映像をより一層魅力的にしてくれます。年月を経てから初めてこのカットを五感で堪能したとき、恥ずかしいことに、小学生の頃ワクワクしながら見ていたあの思い出がよみがえり、懐かしさと、これがヤマトだ、という心の奥底で残っていたしこりが消え去って満足した気持ちに陥りました。物好きの勘違いかもしれませんが、初代「宇宙戦艦ヤマト」のヤマト地球生還のカットと「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」におけるヤマト地下都市生還のカットは、日本のアニメーション史上でも屈指の名場面であると思っております。

ところが、「2」ではそのマジックが消去されております。劇伴音楽や人々の歓声で喜びの感情を強調しすぎたおかげか、かえって「さらば」で持っていた味を殺してしまっている。ここでは、恐らく地下都市で待ちわびた人々の気持ちを代弁した劇伴選択になっているのでしょう。最後の希望である宇宙戦艦ヤマトがとうとう生還した!苦しみ抜いた時期は終わり、これで地球は救われた…。ヤマト!ヤマト!ヤマト!…

最初に見たのは「2」であったがために、視点を地下都市の人々からしか持ちえませんでした。のカットのことはさほどにも捉えていなかった記憶があります。しかし、「さらば」のカットではどうか。回想するのは、ガミラスと戦い、ガミラスに滅びを与えてしまった宇宙戦艦ヤマトの物語です。決して地球での艱難辛苦ではありません。その物語もまた語られてしかるべきでしょう。しかし、求めていた物語はむしろ後者のものでした。「2」で抱いた、重要なカットであるにも関わらずに気にもとめなかったことの源泉はそこにあるのかもしれません。求めていた物語と提示された物語の齟齬が生んだ、相互の行き違いと言えるでしょう。

いやはや、本当に映像における音楽や音響表現の世界は奥深いものです。ひとつとるだけでここまで抱く印象は異なってくる。60秒のカットでこうなのですから、20分のテレビ放映、そして2時間にわたる劇場版で行われる音楽や音響から提示される物語の構成がどんなに大変なことか…。考えるだけでも苦労がしのばれます。






以上のようにオタクはどうでも良い印象をつらつらと語りたがる。悪い習性です。こういうしょうもないことをつらつらと書き続けることよりも、もっと生産的なことにリソースを注がないといけませんね。