過度に適度で遵当な

在日日本人

いわゆる「永楽音源」の実際

これまで永楽電気製の放送装置に組み込まれる場合の多かったため、「永楽電気」製と思われてきた、主に童謡をアレンジしたメロディー群のマスター音源を縁あって入手しました。
既往商品の組み込みではないか?との指摘は以前よりありましたが*1、今回の発掘によって、このメロディー群が「永楽電気」製ではなく「National」製である可能性が高まりました。
本記事は、これまで「永楽電気」製と思われたメロディー群の実際について報告します。

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【追記と修正あり】「学校のチャイム」、誰が作ったの?

 今回の記事はトリビアルな内容です。「学校のチャイム」として知られる「ウェストミンスター鐘」について語ります。
 「学校のチャイム」は現在、放送装置に組み込まれたPCM音源の再生が主流です。一方、1950年代は「ミュージックチャイム」装置と呼ばれる金属打鐘式のチャイム装置が一般的でした。1980年代後半にTOAやナショナル等のオフィス向け音響装置メーカーがPCM組み込みの装置やメロディカード装置を開発したことでPCM化が進みました。なお、現在でも「ミュージックチャイム」装置を利用するオフィスや学校もあるようです。
 先日、中止になった第98回コミックマーケット向けに『「ウェストミンスター鐘」の音響誌』を出したのですが、
www.melonbooks.co.jp
 そこでイギリスのビッグベンの時計鐘がヨーロッパの時計産業と国際的時計市場の中で時計鐘として定着した「欧米列強編」と、20世紀初頭の日本に伝来し、1950年代の日本でサイレンに代わる時報装置として爆発的に波及した「戦後日本編」の2編構成で波及過程を叙述しました。
本記事の結論を先取りすると、日本のオフィスや学校に「ウェストミンスター鐘」を定着させた「ミュージックチャイム」装置は1930年代に既に原型があり、誰か一人の発明者に還元しえません。

 「学校のチャイム」と呼ばれる「ウェストミンスター鐘」に関する記事をウェブで散策すると、発明家の石本邦雄さんに端緒を求める内容の記事にしばしば出会います。以下はその一例です。
『産経こどもニュース』, 2013年4月25日,「イギリスの時計塔とと学校チャイムの不思議な物語」
https://www.sankeikids.com/doc_view.php?view_id=693
根源を探ると2007年3月26日 (月) 07:27編集以降のWikipedia記事「チャイム」が発端のようです。それ以前かつWikipediaの同記事以外に個人に還元した記事はウェブアーカイブされていないのか、見つけられませんでした。
ja.wikipedia.org

 一方、『朝日新聞』2007 年 10 月 01 日 「(疑問解決モンジロー)チャイム、なぜキーンコーン?」は石本邦雄さん以外に井上尚美さんと真島福子・宏さんの3人の名前を発案者に挙げています。井上さんと真島さんはほぼ同時期の1954年に「学校のチャイム」を打鐘する「ミュージックチャイム」装置*1を考案、あるいは発明しています。一方の石本さんは先述の『産経こどもニュース』では1963年に「発明」したと述べています。石本さんはちょっと出遅れたわけです。ご自身の他の証言と突き合わせると*2

1957年には組織を改め、株式会社鯉城時計製作所を設立。そして、1963年、現在の工場がある五日市に移転。同社の受託業務は木工から板金へと徐々に移行し、ミュージックチャイムの製作も始まった。

とあり、1963年頃に製造開始が始まったのは確かなようです。しかし、『産経こどもニュース』は

20才になった昭和38(1963)年頃、時計メーカーに相談されて「時報チャイム設備」を制作した時に、そのメロディーが鳴るようにしたところ、のちに全国の学校へと広がったのです。

と記載しています。Wikipediaの記事は現在も石本さんの功績と記述しています。産経新聞の書き手もWikipediaを参考にしたんでしょうか。
また、ナイーブに採用した下記のサイトもあります。精工舎は戦前からオルゴール時計*3の生産を得意とし、戦後も「ウェストミンスター鐘」をラインナップにしたオルゴール装置を販売しています。内田洋行はライバル企業との販売競争がある。Victorや日本コロムビアのような大手レーベルは、ミュージックチャイム装置を組み込む、文部省基準をクリアした学校放送システムを一式で揃えていました。大手企業に還元する英雄論ではありませんが、各企業の持つ文脈が複合した先に石本さんのミュージックチャイムが見いだされた。
sites.google.com
 間違う間違わない以前の歴史叙述への態度が問題です。史料批判ができないマニアによる叙述の危うさや、歴史修正主義との関係はいずれ何かの機会で書きたいところです。例えば『サブカルチャーと歴史修正主義』等、マニアの予防線は批判されているわけですから、アンテナの感度の低さはもはや許されません。

 さて、こうした「神話化」言説は珍しいものでもありません*4。販売網が広がり、各地でベルやブザーからミュージックチャイムの交換があったのは事実かもしれませんが、過去の証言で想定する「日本全国への波及」と言うのは困難です。
 しかし、これは石本さんの功績を無にするものとは言えません。「大戦と音響メディア」というもっと大きな文脈でとらえる必要があります。ベル、ブザー、サイレン等の戦前から使われてきた音響メディアの形成する音に過去の辛苦を感受し、それを克服しようとした技術者による運動と言い換えられます。それだけ、音と過去の悲惨な記憶の結びつきは20年弱経ても強かった。

 では、井上さんか真島さんのどちらかが先駆者?と追及したくなりますが、先に1950年代の東京の音響メディアについて確認しましょう。
 1940年代を通し、東京府各自治体は街頭サイレンを設置していました。これは街頭時報と防空警報を兼ねたもので、それ以外も国民精神総動員運動の一環で国家慶祝行事や天皇家の記念日にサイレンを吹鳴していました。1945年の敗戦で防空警報の役割が無くなり、東京の街頭サイレンは時報吹鳴機能のみになります。一方、街頭サイレンに代わる音響メディアとして1950年にYAMAHAがミュージックサイレンを開発し、銀座のYAMAHA本社に同装置が設置されます。また、森永時計塔に黛敏郎作曲の時報鐘が設置され、1950年代の東京は音楽時報が台頭し始めた時期と言えます。しかし、鐘の鳴り方に音楽性を持たせた時計鐘は1930年代から既に設置されていました。東京駅前の山田耕筰による時計鐘や早稲田大学等に既に設置されており、1950年代にいきなり始まったものでもありません。
 「サイレンから音楽へ」のムーブメントは1950年代前半の官公庁、公民館、オフィスで始まっていました。その音楽が「ウェストミンスター鐘」です。学校鐘の交換ムーブメントはその一環と言えます。東京の公立学校は1953年頃から既にサイレンやベルから「ウェストミンスター鐘」の交換が始まっています*5。1950年代の東京に見られた「サイレンから音楽へ」のムーブメントを支えたのが前述の「ミュージックチャイム」装置ですが、1933年に本間清人さんが執筆された『家庭用実用品の作り方』の「ウェストミンスター寺院のチャイム」に既に原型が見られます。この著作は『少年技師ハンドブック』シリーズの一環で、同シリーズの書籍は1930年代から40年代にかけての日本のテックギークの少年たちにとって一般的な教科書だったと言われています。同記事や1950年代の「サイレンから音楽へ」ムーブメントを考慮すると、井上さんや真島さんがイチから考案、開発したとは考えにくい。
 誰か一人の発明者を見つけ出すより、「ウェストミンスター鐘」が1950年代に持っていた表象や文脈を考えるほうが有意義です。
 
 今回はここまで。深く掘り下げると「チャイム」にまつわる文化史やメディア史の論点が出てきますが、それは小冊をお読みください。

*1:マジマ社の商品名は「ミュージカルチャイム」

*2:https://www.nc-net.or.jp/knowledge/mag/trajectory/45.html

*3:「服部の音時計」と言われた。

*4:一方の真島さんも他の新聞記事の取材に対し、自らが「ミュージカルチャイム」の発明者であると述べている。後述するが、「ミュージカルチャイム」装置は1930年代に原型が登場しているし、1954年、「ミュージックチャイム」は光星舎等によって販売されていた。

*5:『毎日新聞』1954.04.12「月島第二小に併設-明石小にチャイム・オルゴール設える」

【追記】明治政府と時報鐘

近代国家として語られる明治政府が発足したころ、明治政府が幕藩体制から引き継いだ時報鐘や時報太鼓をどう扱っていたのか、基礎的な調査はされていないように見えます。笹本(1990)は幕藩体制下の時報鐘は各都市や村落を含め日本の各地にあったと言います。どうなってしまったのでしょう。政権以降期に焦点をあて、明治政府と時報鐘の関係を調べてみます。

1 江戸時代の時報鐘や時報太鼓について。
江戸、川越、大坂等の城下町に時報鐘があったことは周知の事実です。一方、18世紀の初頭まで、東海道等街道筋の宿場町に時報鐘や時報鼓は行き届いていなかったようです。
1710年 or 1711年、関東(幕府)は時報鐘のない東海道の宿場町に、時報鐘、時報鼓、時報香の設置を指示する。夜半も拍子木で時刻を知らせるよう触書を出します。

東海道美濃路迄道中宿々にて只今迄夜中時々不相知知處も有之に付、向後軽旅人迄も存候様時を打たせ可申旨、御老中被仰渡候、依之東海道筋御料宿々にて時之鐘有之ざる處は常番を差置、夜中拍子木時打候(中略)時之鐘無之宿者、右之心御申付可然候
『令條秘録 八』(句読点はブログ著者。フォントの問題で漢字を現代字に置き換えたものもある)

宝永年間か正徳改元後は定かではないもの、徳川は宿場町に時報システムの設置と維持を下命しています。江戸時代中期には時報鐘が旅行者にとって不即不離の存在に位置づけられていた様子がうかがえます*1

2 幕藩体制の崩壊と時報鐘・時報太鼓
19世紀、日本の各地に時報鐘や時報太鼓が設置され、それらは藩によって運営費が賄われていました。明治政府の廃藩置県後も時報鐘や時報鼓は引き継がれ、各地方官が官費で運営していました。東京も江戸以来の時報鐘以外に宮内省による時報鼓が設置されていました。
ところが、東京の時報鼓は1872年5月20日に廃止されます。東京だけではなく、1873年6月24日、明治政府は時報鐘や時報鼓と堂舎の新築営繕等運営維持費用支給を打ち切ります。

各地方ニ於イテ報時鐘鼓並所属ノ堂舎共新築又ハ営繕等官費支給ノ儀ハ都テ相廃止候事
但民費ニテ在来ノ堂舎其儘設置候儀ハ不苦候尤都合ニヨリ取毀候節ハ入札ヲ以テ払下ゲ其代買明細調書相漆大蔵省ヘ上納可致事
『明治六年六月二十四日第二百二十三号布告』

明治政府として時報鐘や時報鼓は使いませんが、民間による運営か、取り壊して大蔵省に上納金を要求しています。体のいいリストラです。

ですが、明治政府の全行政機関が時報鐘や時報鼓を廃止したわけではなかったようです。函館、札幌、根室に北海道開拓使が官費で運営する時報鐘や時報鼓が設置されていました*2

明治五年十二月廿六日 開函第百二号庶務掛ヘ達 当庁前へ時辰鐘を掲ぐ 
『開拓使函館支庁布達々留』*3

明治六年一月一日 開函民第一号函館戸長ヘ達 一月一日より毎夜時鐘を打たしむ 
『開拓使函館支庁布達々留』

明治六年一月十八日 開函第八号達民第六号函館区中ヘ布達 時辰鐘を改め太鼓を置き時を報す 
『開拓使函館支庁布達々留』

明治六年十二月二十九日 開札無号布達 本庁報鼓を廃し時鐘を用ゆ 
『開拓使布令録』

明治七年一月四日 開札第一号各局ヘ達 本庁報時鐘打方改正 
『開拓使布令録』

明治七年一月二十五日 開札第十一号各局へ達 一号札幌群市在正副戸長へ達 本庁報時鐘を廃し太鼓を用ゆ 
『開拓使布令録』 

明治八年四月七日 開根室第十一号副戸長へ達 時報鐘板を用ゆ 
『開拓使根室支庁布達全集』

明治八年八月三十日 開札第百二十五号各局院へ達 本庁報時を廃す
『開拓使布告録』

明治八年十二月十三日 開札番外 各局院民事局、札幌市在区戸長へ達 本庁時報鼓 本庁罹災後廃止
『開拓使布告録』

明治十九年八月二十四日 北根告第六十七号告示 根室に報時鐘設置
『開拓使根室支庁布達全集』

と、頻繁に時報鐘や時報鼓の設置改組を行っていた様子が読み取れます。

また、天候と気象を測定する官庁である気象庁、気象業務と密接に絡んでいる消防本部が時報鐘を有する例もありました*4

3 明治初頭の民間の時報太鼓
明治政府の『官報』によると福岡県赤間地方の各村落は時報鼓を農繁期の作業の目安にしていた記録が残っています*5

f:id:aqbar:20200417004751p:plain
図1 「農家稼業報時鼓略歷(福岡縣)」

【以下追記】
農村部の昼食や間食休憩は周囲の農業従事者と共同でとられる。赤間地方の時報鼓も農事休憩を報するために設置されたと見られる。一方、この農事休憩は明治政府の時刻で差配される。これは農村部に明治政府に権威付けられた定時制時刻の浸潤が読み取れる。明六改暦以降の農事休憩の時刻を研究することにより、農村部の定時制時刻受容の波及過程を分析できると思われる。ここで疑問が生じる。農村部に明治政府の。そもそも、明六改暦によって定時法がもたらされたとはいえ、その時刻で作業が差配される組織や集団は軍、役所、会社組織等の近代的組織に限定される。現代にいたるまで一般的な農場は日暮れと共に作業を終える。そのため、農業従事に限定すると江戸期以来の旧時法であっても不都合はない。当時の農村部にあった定時制で運用される組織は役所や学校等に限られる。明治20年代の進学率をみると、学校経由にのみ還元するのは必ずしも誠実な立場とは言えない。とすると、別のプロセスが考えられる。それは軍じゃないか。徴兵制軍隊の経験が農村部に定時制(即ち天皇の権威が保障する軍隊が、個々人のバイオリズムを解体して強要する時間)をもたらしたのではないか。

とすると、これまでの明六改暦言説は封建の徳川と開明の明治の分断を強調するためのものだった。しかし、実際の波及プロセスを考慮すると、徐々に浸潤していったと考えられる。明六改暦は分断ではなく、グラスルーツにとっては封建制解体の出発点と位置付けられるのではないか?
と、いうのはきっとどこかで議論されているのだろう。
【追記ここまで】

浦井先生の『江戸の時刻と時の鐘』と付き合わせると、廃仏毀釈運動による仏教寺院の排斥で、命脈を経たれる官営時報鐘鼓も多かったと指摘されています。しかし、時報鐘鼓の処分は廃藩置県後の明治政府による資産整理の面もあった。一方、北海道開拓使は『太政官布告』以降も設置を続けた。当初は「時辰鐘」、不定時十二支時刻で打鐘鼓した時報鐘鼓もあった。

すなわち、明治政府や明治政府の役人たちは時報鐘の機能に一定の評価をしており、仏教弾圧の文脈によってのみ時報鐘鼓の廃止が行われたとは、必ずしも言いがたい。ただし、明治政府が江戸期以来の時報鐘鼓の維持に積極的な理由を見いだせなかったとも言える。

時報鐘や時報鼓はその後、一部都市で軍のドン砲に引き継がれます。また、時報鐘は主に民間の担い手が新たに建造した例もしばしば見られます。1924年、モーターサイレンが国産量産されると、再び官による街頭時報が日本各地に広まります。
その話は西本先生や竹山先生がまとめられているので、そちらをご参照ください。

*1:笹本によると、15世紀末の城下町形成と武士たちの時間労働制定着を契機に、時報鐘が波及したと指摘する。

*2:以下引用の片仮名や漢字は適宜現代字に改めた

*3:明六改暦で本来ならありえない日付と言える。改暦の混乱で行政文書の修正は不徹底に終わった等が理由だろうか?

*4:帝国地方行政学会,1929,『現行沖縄県令規全集 : 加除自在. 第2綴』

*5:大蔵省印刷局,1875,『官報』,2722,266

プロとアマチュアの狭間で

 おかげさまで『街頭時報の近現代』が発刊から1年半が経ちました。資料調査に着手したのが2017年10月です。コンスタントに即売会参加のたびに30部売れています。プロの研究者も買われる(!)など、素人には恥ずかしくもうれしい結果です。寺鐘、時計塔、サイレン、愛の鐘、そして防災行政無線に至る近世から現代の街頭時報の通史を叙述した、恐らく日本で最初の冊子です。
www.melonbooks.co.jp
 
 さて、『街頭時報の近現代』を書くにあたり、2017年当時、関係する語句を思いつく限り日本語/英語双方でGoogleScholarの検索にかけてみました。すると、研究の蓄積が殆どない。街頭時報を扱った研究はわずかに
・箕浦一哉,2013,「「夕方5時のチャイム」の公共性:山梨県富士吉田市の取り組みから」,『日本サウンドスケープ協会2013年度秋季研究発表会論文集』,1-5
が目に付くだけでした。これは富士吉田市の街頭時報をケーススタディに、共同体を横断する音の代表として街頭時報を分析した研究です。この研究は
1 防災行政無線の街頭時報は行政による専有独断で決まらないこと(音の公共性)
2 街頭時報を通した紐帯が富士吉田市の内外に形成されていること(音の紐帯)
を明らかにした、街頭時報研究の嚆矢になる研究と言えます。
 箕浦先生以外が研究されているのでしょうか。街頭時報を吹鳴する防災行政無線や自治会有線放送の目的に見ると、放送の担い手が聞き手にある情報を伝達する「メディア」と位置付けることができます。ところが、メディア史の研究は新聞史やラジオ史などの歴史的研究が主流と言えます。マクルーハンやキットラーなどの議論を下敷きに、科学技術の発達により生まれたラジオや電信といった新しいメディアに近代社会の人間がどう対応し、どう位置付けていったのかを研究する分野です。日本のメディア史は吉見俊哉の『声の資本主義』を起点に、ラジオや新聞等のマスメディアと近代日本社会の関わりを主要な問いにしていました。とすると、防災行政無線や自治会有線放送は時代的に誕生まもないメディア形態だったので研究上の課題に浮上しにくかったのだと思われます。
 吉見俊哉のメディア史研究の視座に異議を唱えたのが坂田謙司の『<声>の有線メディア史』です。坂田は同著で吉見俊哉のメディア史を「都市のメディア史」であり、片務的な研究であると批判します。坂田は吉見のラジオ史と電話史研究に対し、有線放送電話の歴史分析を行います。スタンダード(都市)とローカル(地方)が対置するメディア空間が戦後日本に形成されていたと指摘します。街頭時報って確かに地方のもの、というイメージが一般的と思われます。
 ですが、地域性の論点は、街頭時報史研究の根拠として弱い。日本の自治体の60%以上が街頭時報を採用している以上、片務的なものとは言い難い。
 これ以上は専門家の方から怒られが確実に来るので言及は避けます。メディア研究者に怒られそうです。マジで。あいつらLINEでここが違うって言ってくるんだぞ。ありがたいことです。
 ここから先を論じるのであれば、これまでのメディア史に対して街頭時報史を見ると、担い手の都市地方流動性、戦前期街頭サイレンによる空間横断的聴衆の形成、そして箕浦(2013)が提示した「音の紐帯」に至る、サイレンを軸にした空間越境的聴衆の誕生、すなわち時空間を超越する聴衆形成、そして統治者にとっての音の意義(「想像の共同体」を形成する「統治のメディア」)が指摘できる、という話がしたいのですが、それは私には荷が重すぎます。

 と、2017年12月に小冊の執筆に着手したころ、街頭で聞く時報音楽の研究は全くというほどなされていませんでした。そこでとるべき態度は以下の2つがあるように思われました。
1 研究者が怠惰で無能だと罵る
2 プロでさえ研究が進まないのだから、アマチュアにできることを考える
 1は誠実な態度ではありません。というわけで2を選びました。すなわち、フィールドとしてのマニアの空間で、マニア向けの通史を書く方法です。大学院から去る際、大学の契約データベースや国会図書館に所蔵されている街頭時報に関係する記事を根こそぎ収集しました。その他にも国立公文書館、東京都公文書館、東京都立中央図書館、神奈川県立中央図書館、埼玉県立図書館、千葉県立図書館等々から行政資料を収集し、調査結果をもとに通史を叙述したのが『街頭時報の近現代』と『街頭時報ハンドブック (各都道府県)編』です。実は『街頭時報の近現代』、参考文献欄の作成が追い付いていません。それに増刷のたびに内容を修正・加筆してきたので、値段も500円⇒1000円⇒1500円と当初の3倍になりました。値段分の価値を提供できていると思いたいです。

 『街頭時報の近現代』を出してから2年後の2020年1月、早稲田におられるキットラー研究者の原克先生が『騒音の文明史―ノイズ都市論』を刊行されました。東京市の「音の表象」を議論し、都市における「音」の位置づけを問うものです。そこで東京市のドン砲と街頭サイレンがガッツリ議論されていました。しかも小冊と議論や資料がクロスしている。街頭時報や「音」について何もなかった状況から、少しずつ議論の視座がメディア研究者たちに形成されているのかな、と思います。先日のC97、弊スペースにいらした方に原先生がいた気がする。お写真を拝見するとそっくりな方だった。そうでないかもしれないけども…

 大学院から去ったあの時の、失意のどん底を思い出すと、これでいいのだと思う。プロから見ると情けない内容でも、プロが小冊を見出してくれたら、ちょっとうれしい。

 街頭時報の一発芸人ですから、今後も深く、街頭時報を掘っていきます。

 でも、最後は発車メロディーや駅の発車合図の歴史叙述をしたい。マニアとしての一義のアイデンティティーは発車メロディーマニアだ。誰も持っていなかった、自分だけの視座で発車メロディーを語りたい。

夏コミの総括

開催から1ヶ月も経ちましたが、夏コミの総括です。

・用意した冊子は完売
おかげさまで「街頭時報の近現代」は完売いたしました。現在は冬コミの第2刷に向けて準備中です。第2刷での差し替えや記述増強についてはまた後日に。

・第1刷での訂正箇所あり
第2章に事実誤認、第3章に図表番号と脚注の漏れがありました。訂正PDFをアップします。

・増刷について
増刷にあたり、先の訂正箇所の訂正、さらに本冊子の記述変更と全体の再構成を行っています。

☆第1章
本冊子が歴史叙述を行うに辺り、理論的視野が不足しています。時報の機能変遷を担い手から見るにしても、各過程の二次資料をおってきたにとどまっていたように思われます。そのため、現在の第1章を序章、歴史叙述を行う理論的考察を第1章への改築を検討しています。

☆第2章
時報サイレン塔の記述に事実誤認がありました。第2刷ではこちらについて訂正します。また、時報サイレンが設置されていたと現在でも確認できる自治体で郷土資料を収集する計画を立てております。残念ながら、こちらは第2刷には反映できる見通しがありません。Webで補章として公開できればと思います。

☆第3章
記述増強をはかるための資料収集を行っています。埼玉県や静岡県の県政資料や自治体資料を主に見ており、防災行政無線政策の波及過程とミュージックチャイムの定着の事例を増やし、ケーススタディとしてブラッシュアップしていきます。

☆第4章
第1章の分割と理論的視野の更新にともない、第4章のとめの書き換えを検討しています。本冊子のなかで第4章の機能を冊子の論理全体に落としこめていない、必要のあまりない記述になっています。そのため、新第1章の内容にあわせて考察を改築したいと考えています。

・第2刷以降について
本冊子は「ファン・コミュニティでの歴史的知識の強化と各人連携の強化」を目的に作成いたしました。現在、ミュージックチャイムをはじめとした街頭時報の情報はYouTubeで数多く手に入ります。また、街頭時報の技術的な内容も同じくYouTubeで知ることもできます。ファンのみなさんのたぐいまれな努力によってなされてきたもので、一朝一夕にできるものではないと思います。一方で、防災行政無線の基礎的な情報やミュージックチャイムの波及過程についてはあまり知られてくることはありませんでした。
しかし、歴史的知識を増やしていくことで、街頭時報の性質や地域的かたよりなど、コミュニティの貪欲な知識欲の一助になり、「愛の鐘」など、現在もミュージックチャイムで現役の曲目の成立やその波及について、少しでも貢献できかな、と考えています。

しかし、媒体として紙を使うかは別の問題です。今回、冊子として発行できたのはこれまで自由に使えた時間やデータベースのおかげです。これまでとは使える時間やデータベースに制約のあるなか、冊子として発行するのは困難だと考えています。
第2刷、あるいは第3刷以降は、調査報告として今後もWeb媒体を利用していくことも検討しています。

・反省点
☆資料収集の課題
資料の過半を新聞記事や雑誌記事などの二次資料に頼ってしまいました。戦争前の時報サイレンに関して、国立公文書館、国会図書館、東京都公文書館、東京都立図書館、大阪市立図書館、大阪府立図書館、大阪市公文書館から東京市や東京府、大阪市の行政資料を集めましたが、当時の設置経緯などを細かく網羅することはできませんでした。いっぽう、新聞記事は豊富に残されており、ここから事実、文面から時報に対する当時の思惑を再構成していきました。
いっぽう、戦後の「愛の鐘」に関して、こちらも民間団体の活動であり、資料のアクセスに制約がありました。大阪市に関しては大阪市婦人協議会が残した記念誌やその他の区の記念誌から構成が可能でしたが、その他の地区では行政資料や新聞資料から断片を拾っていく他ありませんでした。さらに、地域防災行政無線・同報無線は、中央防災会議資料に探り当てられず、これに参加した研究者が当時発表した資料や回顧録から政策確立過程を収集せざるをえませんでした。また、ミュージックチャイムのケーススタディを東京都としたのも課題が残っています。
☆理論の問題
理論的パースペクティブが不十分なことも今後の課題です。これは苦手なことなので、勉強しつつ視点を固められたらと思います。


・今後のこと
冬コミに申し込みました。そのあとは資料性博覧会かな…と思います。街頭時報本を売りきったのちはまたヤマトBGMに戻るかな、とも検討しています。

8月にむけての進捗状況

お久しぶりです。ノートPCのキーボードがいかれたので外付けキーボードを買い、画面がいかれたのでHDMIとモニタを購入しました。延命治療をさせられている末期がん患者に見えてきました。新しいノートPCを買えと言う話ですが、金がありません。許してくれ。

夏に向けた同人誌「『街頭時報』の近現代」の進捗ですが、見込み作業量に対して4割です。資料関係はほぼ収集が済み、一気に原稿を書き上げるだけ、にまで来ました。ただ全体を通して記述の削減や構成の変更が必要なところがあり、できごとを網羅して終わりそうです。社会史的叙述をめざしていたのですが、使うべき資料の消化や構造化に割ける時間に限りがあるため、8月の締め切りを考えると、やむをえませんでした。ただ、中途半端な記述としたくないため、増刷する場合に、補章として挿入することを検討しています。

この冊子の目的として、
① 既存の趣味者には、街頭時報の歴史的過程という新たな視点の獲得
② 興味のない方にたいし、街頭時報の奥深さを知ってもらう
③ 既存のアカデミックな研究と現在の趣味者との接続を図る
の3つを掲げています。
それゆえ、序章や第1章では先行研究のフレームやそこでのリサーチクエスチョン、獲得された知の紹介やざっくりとした議論を進めています。序章や第1章をもとに、第3章では現状の趣味者による詳細な調査から視点を見出し、アカデミックな知に接続を試みています。

こうした目的をふまえ、現状、検討している章立ての構成です。
序章
第1章 古代から近代の街頭時報
 第1節 時間規範の厳格化と時報
 第2節 近代日本と時報
  第1項 ラジオと時報
  第2項 時の記念日と生活改善同盟
 第3節 街頭サイレンの登場
  第1項 東京市のサイレン設置
  第2項 皇族と国民のメディアとしてのサイレン
 第4節 終戦後のサイレン
第2章 戦後から現代の街頭時報
  第1節 「愛の鐘」
  第2節 「有線電話」と「有線放送」
  第3節 「同報無線」と「防災行政無線」
  第4節 これからの街頭時報
第3章 まとめ
  第1節 街頭時報の意義
  第2節 街頭時報を趣味する意義
附記 「愛の鐘」の全国リスト
参考資料・参考文献


の序章をふくめた4章構成です。新聞記事や雑誌記事などから社会史的叙述を、政策的主体の動きを把握するため、官公庁発行の雑誌や議事録、あるいは広報誌を利用します。また、本冊子の視点を時間規範の厳格化とその担い手としての行政・社会運動団体に定めるため、時間論に関する先行研究をもとに、適宜補足していきます。さらに、現代の街頭時報として主流の「自治体ミュージックチャイム」の浸透や担い手を把握すため、企業広報や広告、内閣府などのパンフレット、研究者や専門家による調査報告なども随時利用していきます。

こうした資料は調査の制約もあり、戦争前のものは薄く、戦争後のものは手厚い記述になる、と、現状では検討していますが、作者の余裕をみて、戦後の社会的反応なども、今後増刷する際に補章に組み込むことも考えています。場合によっては、資料消化や構成に時間を要する社会の反応をまるまる削除し、補章で記述することも検討しています。

以上が、現状での進捗です。現在、序章と第1章の草稿が完成しており、第2章の戦後編に着手しています。こちらの戦後編ですが、先日、資料調査によって新たな発見的事実があり、新たな節として第3節を挿入しました。全体的に記述を改変する必要もあり、今後の作成に影響を及ぼしそうです。

委託先についても依頼をさせていただいており、このままのペースで行けば、8月のコミケでみなさまにお渡しできると思われます。

次の報告では、今回以上に善いことが言えるように励みます。

今後の予定

【近況】
・就職をしました
・働いています

【今後の予定】
・「街頭時報」の近現代史をまとめる
いままで散発的にアップロードしてきた「愛の鐘」や「ミュージックチャイム」に関する調査結果をまとめ、冊子を発行したいと考えています。内容ですが、近代から現代にかけて、「愛の鐘」あるいは「ミュージックチャイム」のような街頭時報が波及していった過程、編年体と叙述文を駆使し、往還の記述をします。微細にわたる叙述ではなく、ざっくりとした「街頭時報」のフレームと性質変化の提示を目指しています。
具体的な中身ですが、
・時報と日本(古代から現代までの総論)
・20世紀初頭、東京市によるサイレン設置
・文部省中央生活改善同盟会による時間規範の徹底化
・皇族と帝都臣民のメディアとしてのサイレン
・国民防空の形成による各地「空襲警報」の設置(東京市サイレンの読み替え)
・「通信の自由」が認められたことによる「農事共同聴取施設(有線放送電話)」の設置
・都市商業活動の再隆盛にともなう「愛の鐘」の設置と波及
・東海地震対策による「同報無線」制度の国家支援と波及
・「同報無線」とミュージックチャイムの波及、自治体の相互参照
・消防政策と音響メーカーの関係、「防災産業」化
・感性文化としてのミュージックチャイム
の10パラグラフで構成したいと考えています。

特に、音響メーカーの産業発展と消防政策の関係は深く、そうした産業史と政策史の編年化だけでも、みなさんの好奇心を刺激するものになるのではないか、と考えています。切り口にこうしたミュージックチャイムをいれることで、何か新しいことが言えないか、とも探っています*1
発行予定は…仮本を今年中にCOMIC ZINさんに委託できたらいいなと思っています*2

土日を使って、コツコツと書いていけるよう努力します。

*1:1報ではないので、内容についてはご容赦ください

*2:編年式にフェーズでまとめるのもアリですね