過度に適度で遵当な

在日日本人

【追記】明治政府と時報鐘

近代国家として語られる明治政府が発足したころ、明治政府が幕藩体制から引き継いだ時報鐘や時報太鼓をどう扱っていたのか、基礎的な調査はされていないように見えます。笹本(1990)は幕藩体制下の時報鐘は各都市や村落を含め日本の各地にあったと言います。どうなってしまったのでしょう。政権以降期に焦点をあて、明治政府と時報鐘の関係を調べてみます。

1 江戸時代の時報鐘や時報太鼓について。
江戸、川越、大坂等の城下町に時報鐘があったことは周知の事実です。一方、18世紀の初頭まで、東海道等街道筋の宿場町に時報鐘や時報鼓は行き届いていなかったようです。
1710年 or 1711年、関東(幕府)は時報鐘のない東海道の宿場町に、時報鐘、時報鼓、時報香の設置を指示する。夜半も拍子木で時刻を知らせるよう触書を出します。

東海道美濃路迄道中宿々にて只今迄夜中時々不相知知處も有之に付、向後軽旅人迄も存候様時を打たせ可申旨、御老中被仰渡候、依之東海道筋御料宿々にて時之鐘有之ざる處は常番を差置、夜中拍子木時打候(中略)時之鐘無之宿者、右之心御申付可然候
『令條秘録 八』(句読点はブログ著者。フォントの問題で漢字を現代字に置き換えたものもある)

宝永年間か正徳改元後は定かではないもの、徳川は宿場町に時報システムの設置と維持を下命しています。江戸時代中期には時報鐘が旅行者にとって不即不離の存在に位置づけられていた様子がうかがえます*1

2 幕藩体制の崩壊と時報鐘・時報太鼓
19世紀、日本の各地に時報鐘や時報太鼓が設置され、それらは藩によって運営費が賄われていました。明治政府の廃藩置県後も時報鐘や時報鼓は引き継がれ、各地方官が官費で運営していました。東京も江戸以来の時報鐘以外に宮内省による時報鼓が設置されていました。
ところが、東京の時報鼓は1872年5月20日に廃止されます。東京だけではなく、1873年6月24日、明治政府は時報鐘や時報鼓と堂舎の新築営繕等運営維持費用支給を打ち切ります。

各地方ニ於イテ報時鐘鼓並所属ノ堂舎共新築又ハ営繕等官費支給ノ儀ハ都テ相廃止候事
但民費ニテ在来ノ堂舎其儘設置候儀ハ不苦候尤都合ニヨリ取毀候節ハ入札ヲ以テ払下ゲ其代買明細調書相漆大蔵省ヘ上納可致事
『明治六年六月二十四日第二百二十三号布告』

明治政府として時報鐘や時報鼓は使いませんが、民間による運営か、取り壊して大蔵省に上納金を要求しています。体のいいリストラです。

ですが、明治政府の全行政機関が時報鐘や時報鼓を廃止したわけではなかったようです。函館、札幌、根室に北海道開拓使が官費で運営する時報鐘や時報鼓が設置されていました*2

明治五年十二月廿六日 開函第百二号庶務掛ヘ達 当庁前へ時辰鐘を掲ぐ 
『開拓使函館支庁布達々留』*3

明治六年一月一日 開函民第一号函館戸長ヘ達 一月一日より毎夜時鐘を打たしむ 
『開拓使函館支庁布達々留』

明治六年一月十八日 開函第八号達民第六号函館区中ヘ布達 時辰鐘を改め太鼓を置き時を報す 
『開拓使函館支庁布達々留』

明治六年十二月二十九日 開札無号布達 本庁報鼓を廃し時鐘を用ゆ 
『開拓使布令録』

明治七年一月四日 開札第一号各局ヘ達 本庁報時鐘打方改正 
『開拓使布令録』

明治七年一月二十五日 開札第十一号各局へ達 一号札幌群市在正副戸長へ達 本庁報時鐘を廃し太鼓を用ゆ 
『開拓使布令録』 

明治八年四月七日 開根室第十一号副戸長へ達 時報鐘板を用ゆ 
『開拓使根室支庁布達全集』

明治八年八月三十日 開札第百二十五号各局院へ達 本庁報時を廃す
『開拓使布告録』

明治八年十二月十三日 開札番外 各局院民事局、札幌市在区戸長へ達 本庁時報鼓 本庁罹災後廃止
『開拓使布告録』

明治十九年八月二十四日 北根告第六十七号告示 根室に報時鐘設置
『開拓使根室支庁布達全集』

と、頻繁に時報鐘や時報鼓の設置改組を行っていた様子が読み取れます。

また、天候と気象を測定する官庁である気象庁、気象業務と密接に絡んでいる消防本部が時報鐘を有する例もありました*4

3 明治初頭の民間の時報太鼓
明治政府の『官報』によると福岡県赤間地方の各村落は時報鼓を農繁期の作業の目安にしていた記録が残っています*5

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図1 「農家稼業報時鼓略歷(福岡縣)」

【以下追記】
農村部の昼食や間食休憩は周囲の農業従事者と共同でとられる。赤間地方の時報鼓も農事休憩を報するために設置されたと見られる。一方、この農事休憩は明治政府の時刻で差配される。これは農村部に明治政府に権威付けられた定時制時刻の浸潤が読み取れる。明六改暦以降の農事休憩の時刻を研究することにより、農村部の定時制時刻受容の波及過程を分析できると思われる。ここで疑問が生じる。農村部に明治政府の。そもそも、明六改暦によって定時法がもたらされたとはいえ、その時刻で作業が差配される組織や集団は軍、役所、会社組織等の近代的組織に限定される。現代にいたるまで一般的な農場は日暮れと共に作業を終える。そのため、農業従事に限定すると江戸期以来の旧時法であっても不都合はない。当時の農村部にあった定時制で運用される組織は役所や学校等に限られる。明治20年代の進学率をみると、学校経由にのみ還元するのは必ずしも誠実な立場とは言えない。とすると、別のプロセスが考えられる。それは軍じゃないか。徴兵制軍隊の経験が農村部に定時制(即ち天皇の権威が保障する軍隊が、個々人のバイオリズムを解体して強要する時間)をもたらしたのではないか。

とすると、これまでの明六改暦言説は封建の徳川と開明の明治の分断を強調するためのものだった。しかし、実際の波及プロセスを考慮すると、徐々に浸潤していったと考えられる。明六改暦は分断ではなく、グラスルーツにとっては封建制解体の出発点と位置付けられるのではないか?
と、いうのはきっとどこかで議論されているのだろう。
【追記ここまで】

浦井先生の『江戸の時刻と時の鐘』と付き合わせると、廃仏毀釈運動による仏教寺院の排斥で、命脈を経たれる官営時報鐘鼓も多かったと指摘されています。しかし、時報鐘鼓の処分は廃藩置県後の明治政府による資産整理の面もあった。一方、北海道開拓使は『太政官布告』以降も設置を続けた。当初は「時辰鐘」、不定時十二支時刻で打鐘鼓した時報鐘鼓もあった。

すなわち、明治政府や明治政府の役人たちは時報鐘の機能に一定の評価をしており、仏教弾圧の文脈によってのみ時報鐘鼓の廃止が行われたとは、必ずしも言いがたい。ただし、明治政府が江戸期以来の時報鐘鼓の維持に積極的な理由を見いだせなかったとも言える。

時報鐘や時報鼓はその後、一部都市で軍のドン砲に引き継がれます。また、時報鐘は主に民間の担い手が新たに建造した例もしばしば見られます。1924年、モーターサイレンが国産量産されると、再び官による街頭時報が日本各地に広まります。
その話は西本先生や竹山先生がまとめられているので、そちらをご参照ください。

*1:笹本によると、15世紀末の城下町形成と武士たちの時間労働制定着を契機に、時報鐘が波及したと指摘する。

*2:以下引用の片仮名や漢字は適宜現代字に改めた

*3:明六改暦で本来ならありえない日付と言える。改暦の混乱で行政文書の修正は不徹底に終わった等が理由だろうか?

*4:帝国地方行政学会,1929,『現行沖縄県令規全集 : 加除自在. 第2綴』

*5:大蔵省印刷局,1875,『官報』,2722,266

プロとアマチュアの狭間で

 おかげさまで『街頭時報の近現代』が発刊から1年半が経ちました。資料調査に着手したのが2017年10月です。コンスタントに即売会参加のたびに30部売れています。プロの研究者も買われる(!)など、素人には恥ずかしくもうれしい結果です。寺鐘、時計塔、サイレン、愛の鐘、そして防災行政無線に至る近世から現代の街頭時報の通史を叙述した、恐らく日本で最初の冊子です。
www.melonbooks.co.jp
 
 さて、『街頭時報の近現代』を書くにあたり、2017年当時、関係する語句を思いつく限り日本語/英語双方でGoogleScholarの検索にかけてみました。すると、研究の蓄積が殆どない。街頭時報を扱った研究はわずかに
・箕浦一哉,2013,「「夕方5時のチャイム」の公共性:山梨県富士吉田市の取り組みから」,『日本サウンドスケープ協会2013年度秋季研究発表会論文集』,1-5
が目に付くだけでした。これは富士吉田市の街頭時報をケーススタディに、共同体を横断する音の代表として街頭時報を分析した研究です。この研究は
1 防災行政無線の街頭時報は行政による専有独断で決まらないこと(音の公共性)
2 街頭時報を通した紐帯が富士吉田市の内外に形成されていること(音の紐帯)
を明らかにした、街頭時報研究の嚆矢になる研究と言えます。
 箕浦先生以外が研究されているのでしょうか。街頭時報を吹鳴する防災行政無線や自治会有線放送の目的に見ると、放送の担い手が聞き手にある情報を伝達する「メディア」と位置付けることができます。ところが、メディア史の研究は新聞史やラジオ史などの歴史的研究が主流と言えます。マクルーハンやキットラーなどの議論を下敷きに、科学技術の発達により生まれたラジオや電信といった新しいメディアに近代社会の人間がどう対応し、どう位置付けていったのかを研究する分野です。日本のメディア史は吉見俊哉の『声の資本主義』を起点に、ラジオや新聞等のマスメディアと近代日本社会の関わりを主要な問いにしていました。とすると、防災行政無線や自治会有線放送は時代的に誕生まもないメディア形態だったので研究上の課題に浮上しにくかったのだと思われます。
 吉見俊哉のメディア史研究の視座に異議を唱えたのが坂田謙司の『<声>の有線メディア史』です。坂田は同著で吉見俊哉のメディア史を「都市のメディア史」であり、片務的な研究であると批判します。坂田は吉見のラジオ史と電話史研究に対し、有線放送電話の歴史分析を行います。スタンダード(都市)とローカル(地方)が対置するメディア空間が戦後日本に形成されていたと指摘します。街頭時報って確かに地方のもの、というイメージが一般的と思われます。
 ですが、地域性の論点は、街頭時報史研究の根拠として弱い。日本の自治体の60%以上が街頭時報を採用している以上、片務的なものとは言い難い。
 これ以上は専門家の方から怒られが確実に来るので言及は避けます。メディア研究者に怒られそうです。マジで。あいつらLINEでここが違うって言ってくるんだぞ。ありがたいことです。
 ここから先を論じるのであれば、これまでのメディア史に対して街頭時報史を見ると、担い手の都市地方流動性、戦前期街頭サイレンによる空間横断的聴衆の形成、そして箕浦(2013)が提示した「音の紐帯」に至る、サイレンを軸にした空間越境的聴衆の誕生、すなわち時空間を超越する聴衆形成、そして統治者にとっての音の意義(「想像の共同体」を形成する「統治のメディア」)が指摘できる、という話がしたいのですが、それは私には荷が重すぎます。

 と、2017年12月に小冊の執筆に着手したころ、街頭で聞く時報音楽の研究は全くというほどなされていませんでした。そこでとるべき態度は以下の2つがあるように思われました。
1 研究者が怠惰で無能だと罵る
2 プロでさえ研究が進まないのだから、アマチュアにできることを考える
 1は誠実な態度ではありません。というわけで2を選びました。すなわち、フィールドとしてのマニアの空間で、マニア向けの通史を書く方法です。大学院から去る際、大学の契約データベースや国会図書館に所蔵されている街頭時報に関係する記事を根こそぎ収集しました。その他にも国立公文書館、東京都公文書館、東京都立中央図書館、神奈川県立中央図書館、埼玉県立図書館、千葉県立図書館等々から行政資料を収集し、調査結果をもとに通史を叙述したのが『街頭時報の近現代』と『街頭時報ハンドブック (各都道府県)編』です。実は『街頭時報の近現代』、参考文献欄の作成が追い付いていません。それに増刷のたびに内容を修正・加筆してきたので、値段も500円⇒1000円⇒1500円と当初の3倍になりました。値段分の価値を提供できていると思いたいです。

 『街頭時報の近現代』を出してから2年後の2020年1月、早稲田におられるキットラー研究者の原克先生が『騒音の文明史―ノイズ都市論』を刊行されました。東京市の「音の表象」を議論し、都市における「音」の位置づけを問うものです。そこで東京市のドン砲と街頭サイレンがガッツリ議論されていました。しかも小冊と議論や資料がクロスしている。街頭時報や「音」について何もなかった状況から、少しずつ議論の視座がメディア研究者たちに形成されているのかな、と思います。先日のC97、弊スペースにいらした方に原先生がいた気がする。お写真を拝見するとそっくりな方だった。そうでないかもしれないけども…

 大学院から去ったあの時の、失意のどん底を思い出すと、これでいいのだと思う。プロから見ると情けない内容でも、プロが小冊を見出してくれたら、ちょっとうれしい。

 街頭時報の一発芸人ですから、今後も深く、街頭時報を掘っていきます。

 でも、最後は発車メロディーや駅の発車合図の歴史叙述をしたい。マニアとしての一義のアイデンティティーは発車メロディーマニアだ。誰も持っていなかった、自分だけの視座で発車メロディーを語りたい。

夏コミの総括

開催から1ヶ月も経ちましたが、夏コミの総括です。

・用意した冊子は完売
おかげさまで「街頭時報の近現代」は完売いたしました。現在は冬コミの第2刷に向けて準備中です。第2刷での差し替えや記述増強についてはまた後日に。

・第1刷での訂正箇所あり
第2章に事実誤認、第3章に図表番号と脚注の漏れがありました。訂正PDFをアップします。

・増刷について
増刷にあたり、先の訂正箇所の訂正、さらに本冊子の記述変更と全体の再構成を行っています。

☆第1章
本冊子が歴史叙述を行うに辺り、理論的視野が不足しています。時報の機能変遷を担い手から見るにしても、各過程の二次資料をおってきたにとどまっていたように思われます。そのため、現在の第1章を序章、歴史叙述を行う理論的考察を第1章への改築を検討しています。

☆第2章
時報サイレン塔の記述に事実誤認がありました。第2刷ではこちらについて訂正します。また、時報サイレンが設置されていたと現在でも確認できる自治体で郷土資料を収集する計画を立てております。残念ながら、こちらは第2刷には反映できる見通しがありません。Webで補章として公開できればと思います。

☆第3章
記述増強をはかるための資料収集を行っています。埼玉県や静岡県の県政資料や自治体資料を主に見ており、防災行政無線政策の波及過程とミュージックチャイムの定着の事例を増やし、ケーススタディとしてブラッシュアップしていきます。

☆第4章
第1章の分割と理論的視野の更新にともない、第4章のとめの書き換えを検討しています。本冊子のなかで第4章の機能を冊子の論理全体に落としこめていない、必要のあまりない記述になっています。そのため、新第1章の内容にあわせて考察を改築したいと考えています。

・第2刷以降について
本冊子は「ファン・コミュニティでの歴史的知識の強化と各人連携の強化」を目的に作成いたしました。現在、ミュージックチャイムをはじめとした街頭時報の情報はYouTubeで数多く手に入ります。また、街頭時報の技術的な内容も同じくYouTubeで知ることもできます。ファンのみなさんのたぐいまれな努力によってなされてきたもので、一朝一夕にできるものではないと思います。一方で、防災行政無線の基礎的な情報やミュージックチャイムの波及過程についてはあまり知られてくることはありませんでした。
しかし、歴史的知識を増やしていくことで、街頭時報の性質や地域的かたよりなど、コミュニティの貪欲な知識欲の一助になり、「愛の鐘」など、現在もミュージックチャイムで現役の曲目の成立やその波及について、少しでも貢献できかな、と考えています。

しかし、媒体として紙を使うかは別の問題です。今回、冊子として発行できたのはこれまで自由に使えた時間やデータベースのおかげです。これまでとは使える時間やデータベースに制約のあるなか、冊子として発行するのは困難だと考えています。
第2刷、あるいは第3刷以降は、調査報告として今後もWeb媒体を利用していくことも検討しています。

・反省点
☆資料収集の課題
資料の過半を新聞記事や雑誌記事などの二次資料に頼ってしまいました。戦争前の時報サイレンに関して、国立公文書館、国会図書館、東京都公文書館、東京都立図書館、大阪市立図書館、大阪府立図書館、大阪市公文書館から東京市や東京府、大阪市の行政資料を集めましたが、当時の設置経緯などを細かく網羅することはできませんでした。いっぽう、新聞記事は豊富に残されており、ここから事実、文面から時報に対する当時の思惑を再構成していきました。
いっぽう、戦後の「愛の鐘」に関して、こちらも民間団体の活動であり、資料のアクセスに制約がありました。大阪市に関しては大阪市婦人協議会が残した記念誌やその他の区の記念誌から構成が可能でしたが、その他の地区では行政資料や新聞資料から断片を拾っていく他ありませんでした。さらに、地域防災行政無線・同報無線は、中央防災会議資料に探り当てられず、これに参加した研究者が当時発表した資料や回顧録から政策確立過程を収集せざるをえませんでした。また、ミュージックチャイムのケーススタディを東京都としたのも課題が残っています。
☆理論の問題
理論的パースペクティブが不十分なことも今後の課題です。これは苦手なことなので、勉強しつつ視点を固められたらと思います。


・今後のこと
冬コミに申し込みました。そのあとは資料性博覧会かな…と思います。街頭時報本を売りきったのちはまたヤマトBGMに戻るかな、とも検討しています。

8月にむけての進捗状況

お久しぶりです。ノートPCのキーボードがいかれたので外付けキーボードを買い、画面がいかれたのでHDMIとモニタを購入しました。延命治療をさせられている末期がん患者に見えてきました。新しいノートPCを買えと言う話ですが、金がありません。許してくれ。

夏に向けた同人誌「『街頭時報』の近現代」の進捗ですが、見込み作業量に対して4割です。資料関係はほぼ収集が済み、一気に原稿を書き上げるだけ、にまで来ました。ただ全体を通して記述の削減や構成の変更が必要なところがあり、できごとを網羅して終わりそうです。社会史的叙述をめざしていたのですが、使うべき資料の消化や構造化に割ける時間に限りがあるため、8月の締め切りを考えると、やむをえませんでした。ただ、中途半端な記述としたくないため、増刷する場合に、補章として挿入することを検討しています。

この冊子の目的として、
① 既存の趣味者には、街頭時報の歴史的過程という新たな視点の獲得
② 興味のない方にたいし、街頭時報の奥深さを知ってもらう
③ 既存のアカデミックな研究と現在の趣味者との接続を図る
の3つを掲げています。
それゆえ、序章や第1章では先行研究のフレームやそこでのリサーチクエスチョン、獲得された知の紹介やざっくりとした議論を進めています。序章や第1章をもとに、第3章では現状の趣味者による詳細な調査から視点を見出し、アカデミックな知に接続を試みています。

こうした目的をふまえ、現状、検討している章立ての構成です。
序章
第1章 古代から近代の街頭時報
 第1節 時間規範の厳格化と時報
 第2節 近代日本と時報
  第1項 ラジオと時報
  第2項 時の記念日と生活改善同盟
 第3節 街頭サイレンの登場
  第1項 東京市のサイレン設置
  第2項 皇族と国民のメディアとしてのサイレン
 第4節 終戦後のサイレン
第2章 戦後から現代の街頭時報
  第1節 「愛の鐘」
  第2節 「有線電話」と「有線放送」
  第3節 「同報無線」と「防災行政無線」
  第4節 これからの街頭時報
第3章 まとめ
  第1節 街頭時報の意義
  第2節 街頭時報を趣味する意義
附記 「愛の鐘」の全国リスト
参考資料・参考文献


の序章をふくめた4章構成です。新聞記事や雑誌記事などから社会史的叙述を、政策的主体の動きを把握するため、官公庁発行の雑誌や議事録、あるいは広報誌を利用します。また、本冊子の視点を時間規範の厳格化とその担い手としての行政・社会運動団体に定めるため、時間論に関する先行研究をもとに、適宜補足していきます。さらに、現代の街頭時報として主流の「自治体ミュージックチャイム」の浸透や担い手を把握すため、企業広報や広告、内閣府などのパンフレット、研究者や専門家による調査報告なども随時利用していきます。

こうした資料は調査の制約もあり、戦争前のものは薄く、戦争後のものは手厚い記述になる、と、現状では検討していますが、作者の余裕をみて、戦後の社会的反応なども、今後増刷する際に補章に組み込むことも考えています。場合によっては、資料消化や構成に時間を要する社会の反応をまるまる削除し、補章で記述することも検討しています。

以上が、現状での進捗です。現在、序章と第1章の草稿が完成しており、第2章の戦後編に着手しています。こちらの戦後編ですが、先日、資料調査によって新たな発見的事実があり、新たな節として第3節を挿入しました。全体的に記述を改変する必要もあり、今後の作成に影響を及ぼしそうです。

委託先についても依頼をさせていただいており、このままのペースで行けば、8月のコミケでみなさまにお渡しできると思われます。

次の報告では、今回以上に善いことが言えるように励みます。

今後の予定

【近況】
・就職をしました
・働いています

【今後の予定】
・「街頭時報」の近現代史をまとめる
いままで散発的にアップロードしてきた「愛の鐘」や「ミュージックチャイム」に関する調査結果をまとめ、冊子を発行したいと考えています。内容ですが、近代から現代にかけて、「愛の鐘」あるいは「ミュージックチャイム」のような街頭時報が波及していった過程、編年体と叙述文を駆使し、往還の記述をします。微細にわたる叙述ではなく、ざっくりとした「街頭時報」のフレームと性質変化の提示を目指しています。
具体的な中身ですが、
・時報と日本(古代から現代までの総論)
・20世紀初頭、東京市によるサイレン設置
・文部省中央生活改善同盟会による時間規範の徹底化
・皇族と帝都臣民のメディアとしてのサイレン
・国民防空の形成による各地「空襲警報」の設置(東京市サイレンの読み替え)
・「通信の自由」が認められたことによる「農事共同聴取施設(有線放送電話)」の設置
・都市商業活動の再隆盛にともなう「愛の鐘」の設置と波及
・東海地震対策による「同報無線」制度の国家支援と波及
・「同報無線」とミュージックチャイムの波及、自治体の相互参照
・消防政策と音響メーカーの関係、「防災産業」化
・感性文化としてのミュージックチャイム
の10パラグラフで構成したいと考えています。

特に、音響メーカーの産業発展と消防政策の関係は深く、そうした産業史と政策史の編年化だけでも、みなさんの好奇心を刺激するものになるのではないか、と考えています。切り口にこうしたミュージックチャイムをいれることで、何か新しいことが言えないか、とも探っています*1
発行予定は…仮本を今年中にCOMIC ZINさんに委託できたらいいなと思っています*2

土日を使って、コツコツと書いていけるよう努力します。

*1:1報ではないので、内容についてはご容赦ください

*2:編年式にフェーズでまとめるのもアリですね

「愛の鐘」の昭和史 ① 戦後青少年問題と「愛の鐘」の普及

正午や夕方になると、町に流れる音楽。みなさんも聞き馴染みがあると思います。
あの音楽は自治体向けに開放されている地域防災行政無線を利用して流していおり、地域によっては、朝や正午、場合によっては夜にもチャイムを流すところもあるなど。また、音楽も「夕やけこやけ」だけではなく、「家路・遠き山に日が落ちて(新世界より)」「ふるさと」「七つの子」「エーデルワイス」など、多種多様なミュージックチャイムが用いられています。そうしたミュージックチャイムがいつごろから発展したのか、実際のところはよくわかっていません。
行政の言を借りると、「地域防災行政無線の試験」として説明されていることがあります。一方、自治体によっては帰宅促進あるいは時報として流していることを明記している場合もあるなど、その機能は自治体によってまちまちです。しかし、現在、自治体サイトに明記された機能別に整理すると以下の3種類に分類することができます。

① 純時報的鳴動
 …時報としか明記されていない場合
② 試験放送兼任鳴動
 …時報および試験放送の兼任が明記されている場合
③ 試験単純鳴動
 …地域防災行政無線の試験鳴動として明記されている場合

この地域防災行政無線(同報無線)は各地で整備されていますが、その由来は都市部と農村部では違う場合もあります。

農村部や地方などでは有線放送電話機能を継承して発展したものが多くあります。電電公社の家庭用回線*1の普及が遅れがちだった農村部では、こうした役所や地域内各世帯を結んだ村内・町内有線が有用だったからです。たとえば東京都奥多摩町でも20世紀の終わりまでは有線電話が活躍しており、現在の奥多摩町で整備されている地域防災行政無線の固定系と呼ばれるものは、その後継機能として整備されてきたものです。
そうした農村部では有線電話*2では時報やNHKのニュースを屋外スピーカーから聴取させることもあったことはおなじみだと思います。

さて、①~③で使用用途で整理しましたが、片方向の軸として地域防災行政無線が継承した諸元を、調査した結果をもとに整理すると3×3の分類表ができます。片方の軸は以下のA~Cです。
A 消防団サイレン
 …東京都以外の地方には消防官吏に類する行政消防組織は整備されおらず、行政管轄の地元消防団組織による消防機能が維持されてきました。実際に火事等の際にはこのサイレンを吹鳴させていたのですが、定期訓練でサイレンを流していた場合が多くありました*3
B 有線電話による時報
 …有線放送を経由してNHKや時報を流していた場合がありました。
C 愛の鐘/ミュージックサイレン?
 …戦後・独立回復にかけて都市部での青少年健全化が社会問題となり、それに合わせて地元婦人会や行政等が各地で設置したミュージックチャイムであり、それを「愛の鐘」と呼んでいました。いっぽうのミュージックサイレンは、空襲警報のサイレンを応用し、YAMAHAが戦後に開発した時報用機器を一般的にそう呼称していたものです。双方ともほぼ同時期に整備されたこと、そして時報的機能を有していたことからC分類に目される、としました*4

当初、この「愛の鐘」の存在を知るまでは、一般的に言われている「地域防災行政無線の夕焼チャイムは単なる試験鳴動から始まった」と考えておりました。そして起源は地方の有線放送で流していたチャイムであり*5、都市部はそれを配慮して夕方にのみ流すようになったのだろう、と。しかし、それはどうやら異なるようでした。この地域防災行政無線の定時放送は上記3つを包含して成立した異種同根の類で、それが地域防災行政無線の管轄省庁である郵政省あるいは総務省の政策を通して全国に広まっていったことがわかってきました。そのうえ、都市部の夕焼け放送は「愛の鐘」を一部継承し機能している、ということも。

今回の第1回、はこの「愛の鐘」が誕生、そして地域団体とメディアの旗振りによって全国に定着していった過程をものしたいと思います。

① 社会的背景
昭和20年から35年にかけて、凶悪犯罪とよばれる「強盗」「殺人」「強姦」「放火」の4者によって検挙される少年の数は、現在の10倍近くあったことが言われています*6。そうした青少年あるいは未成年の成長への悪影響を心配したと同時に、当時の都市商業の問題もありました。
昭和戦後、いわゆる娯楽産業に対する営業規制などの法令あるいは条例による規制は、ほとんど行われてきませんでした。現在とは異なり、未成年を相手にした終夜営業も都市の盛り場などでは広く行われていたのです。例えば中学生あるいは高校生がテッペンまわるまで、パチンコ屋や映画館、喫茶店*7に出入りするなど、よく見られたと言われています*8。そうした状況を問題視する組織や団体ももちろん存在し、とりわけ民法などでそうした青少年あるいは未成年の保護的地位にいる婦人がそれを問題視していました。また、全国紙の中にもこうした運動に賛同を示すものもありました。現在とは異なり、行政による規制が行き届いていなかった都市部の盛り場と、適切な関係を模索することが求められていたわけです。それをふまえ、青少年あるいは未成年に対する社会的保護が要請されていた時期でもあったと言えます*9
ざっくりと時代背景を述べてきましたが、ある都市を拠点とする婦人会から、音楽で青少年に時間を告げ、家へ帰るよう説得する、そうしたアイデアが出されました。1954年、当時日本で最も栄えていた商業都市は大阪市での話です。

② 「みおつくしの鐘」の誕生
1954年、青少年問題に関心のあった大阪市婦人団体協議会では、青少年・未成年の「夜遊び」への対応策として、「夜半の22時にチャイムを流す」という案が出されました。この案のもと、1954年10月に大阪市婦人団体協議会と大阪市青少年問題協議会大阪社会教育委員会は合同で「青少年に帰宅の時を知らせる鐘」委員会を設置し、この具体化に取り組んでいきます。200万円(当時)の建設費を寄付やカンパによってまかない、中之島にある大阪市役所の屋上に設置されることとなりました*10。5月5日の子供の日にあわせて除幕式が行われ、午後10時に「ウェストミンスター・メロディー」を編曲:朝比奈隆氏によるミュージックチャイムが吹鳴されることになりました*11。同時にNHKラジオ、新日本放送、朝日放送でも午後10時にこのミュージックチャイムを放送し、音を吹き込んだレコード、市内各所の寺院・教会でも同時に鐘を響かせ、市中でチャイムの音が行きわたるように配慮されていたそうです*12。この鐘は「みおつくしの鐘」の固有名称が与えられましたが、その後ひろく「愛の鐘」として知られることになります。これは、鐘のコンセプトに「母の愛を思い出してほしい」という望いを託していることがあったため、と考えられます。
社会的にも好感を持って受け入れられたようで、大阪市電の切符入れに「みおつくしの鐘」がデザインされたり、「みおつくしの鐘煎餅」なるお土産品も作られるなど、大阪の名物としても受容されたとか。また、テイチクと日本コロムビアから、この鐘を歌った「みおつくしの鐘」(作曲古関祐二 作詞サトウハチロー)のレコードが発売されるほどで、「みおつくしの鐘」の反響はかなりのものがあったと言えます。
その後、1年ほどで「みおつくしの鐘(愛の鐘)」は大阪市内だけではなく、大阪市によれば全国各地にも広がるようになったとされています*13。婦人団体協議会が発行した「みおつくしの鐘:建設の記録」には、旭川市、小豆島、琴平町、松山市、田川市もこの運動に倣い同様の鐘が設置されるなど、各地に広がっていたと記されています。

③ 「愛の鐘」の普及とメディアの運動
大阪で始まってから2年後の1957年、東京でも盛り場に「愛の鐘」を設置せんとする動きが始まりました。子どもをもつ婦人等によって構成された池袋母性協会が、同地で夏休みを前に「愛の鐘」を設置しようとした。これが、現在のところ確認できる東京での最初となっています。ところが、この試みは東京都騒音防止条例によって東京都衛生局から待ったがかなるなど*14、大阪市のように洋々とは行かなかったようです*15
その後の記事によると、池袋の吹鳴開始後は、協会員の努力もあわさってか、補導される少年が従来の半分になるなど効果があったとか*16
池袋の事例をもとに、目黒区の青少年問題協議会が1957年10月に地区内「愛の鐘」設置を決定するなど、23区にもこの「愛の鐘」が浸透していく兆しが見え始めます。実際に1958年から区役所屋上に設置した「愛の鐘」で朝昼晩3回、「トロイメライ」のミュージックチャイムの吹鳴が始まっています*17*18
こうした動きに呼応するように、毎日新聞は1958年10月16日から「愛の鐘を鳴らそう」というキャンペーンを開始させました。これは、いわゆる「不良少年」を「更生」し、社会復帰の手助けをしようとするもので、現場の補導記録から家庭環境、そして少年院で苦しむ少年たちへの支援の手など、青少年問題解決の一助を目指した連載となっています。タイトルにもあるように「愛の鐘」が青少年に対する親や社会の愛情の記号として用いられているいっぽうで、上記のミュージックチャイムとしての「愛の鐘」についても調査、全国推進を図っていくなど*19しています。こうした社会運動としての「愛の鐘」(以降は「愛の鐘運動」)、ミュージックチャイムとしての「愛の鐘」を各地に浸透させていく旗振り役として、東京では在京メディアが登場することになります*20
1958年11月に総理府中央青少年問題協議会は「愛の鐘」設置を全国目標にすえ、これで全国に「愛の鐘」設置が努力目標として制度拡散していきます*21。大阪での「愛の鐘」ラジオ放送にならい、ニッポン放送が午後10時にミュージックチャイムのマイク放送を開始し*22、大阪市の設置から3年で全国的な青少年問題への解決策として拡がっていきました。
さて、「愛の鐘」運動と「愛の鐘」設置を進めている毎日新聞は、1959年1月20日から「愛の鐘」の音楽を募集します*23。これは総理府中央青少年問題協議会を後援として毎日新聞社が主催した、既存の各ミュージックチャイムとは異なる、「愛の鐘」独自のチャイムを新作しようとするキャンペーンです。審査の結果、川崎市在住の男性が応募した音楽が一等に選ばれ*24、日本コロムビアのスタジオ楽団演奏のもと、ラジオ関東で午後10時に演奏されることとなりました*25
これが、現在の地域防災行政無線のミュージックチャイムでも「愛の鐘」として演奏されている音楽の原型にあたります*26
1959年から1960年には「少年や子供たちに帰宅を呼びかける」チャイムとしての「愛の鐘」は東京の各地で吹鳴されるようになっていきました。詳しい年月日は省略しますが、東京では渋谷、上野、東京タワー(!)、港区、北区、千代田区万世橋、世田谷区三軒茶屋など、盛り場や住宅街を問わず設置されていったことが記録に残っています。その後、1964年には時報として定着し冷ややかな視線を見せる記事も出る*27など、東京レベルでは6年ほどで生活に溶け込んでいる様子が伺えるでしょう。

こうして、大阪では民間主導で始まった「みおつくしの鐘」が「愛の鐘」となって各地に拡がり、東京で取組が始まった後は在京マスメディアの旗振りのもと、政府機関の諮問協議会の勧告に上がり、国策レベルの青少年問題解決策として拡大していったと言えます。



今回、戦後青少年問題からその解決策としての「愛の鐘(みおつくしの鐘)」、それが他の都市などに広まり、その背景に大手全国紙のキャンペーンがあったことをざっくり紹介してきました。次回「『愛の鐘』の昭和史②」では、1960年代の「公害の時代」と「愛の鐘」(「愛の鐘」と社会)、老朽化による撤去、そして地域防災行政無線の周波数解放と制度化について紹介したいと思います。

お気づきのように、今回の引用メディアはほとんど毎日新聞です。朝日新聞と読売新聞は記事の量が毎日に比べて少かく、また、情報量も小さいことからほとんど毎日新聞に依拠しています。「愛の鐘」運動を主導するメディアであっただけに取材も熱心だったのでしょうか。しかし、その状況も次回から変化を見せることになります。時間を1957年ごろに再び戻し、いよいよ1981年に東京練馬区から始まった地域防災行政無線の「夕焼け放送」まで時代を下っていきます。お楽しみに。

「愛の鐘の昭和史」については、こちらの内容を加筆修正のうえ、第94回コミックマーケットで頒布する「街頭時報の近現代」に書かせていただきました。ご興味の方は、ぜひお買い求めください。よろしくお願いいたします(2018年8月1日更新)。
おかげさまで、「街頭時報の近現代」は完売いたしました。現在、第2刷を増刷しております。第1刷に図版や記述を加筆、修正をしています。第95回コミックマーケットでも頒布を検討しています。スペースの当落がき次第、報告いたします。(2018年9月25日更新)

*1:現在はNTT

*2:有線放送とも呼ばれてきました

*3:中上健次の小説「一番はじめの出来事」にみることもできます

*4:実際調査したところ継承が定かではなかったもの、後者は行政による時報機能の整備の類者として勘案しています

*5:本多勝一の回想録にそうした記述があり、漠然とそう考えていました。

*6:反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ

*7:特殊飲食じゃないですよ!!

*8:現在の中学生あるいは高校生に対する観念とは異なり、就業開始年齢からすれば、現在は大学学部生あたりに類する社会的地位にいたと考えられます。

*9:新制学校制度による義務教育期間の拡張と中等教育にいる生徒数の増加、経済成長などによって自由になる時間とお金を入手した少年が増えた等、社会変動とその過渡期にあったことが原因にもあるように考えられますが、本企画とは関係がないので備忘録程度に。

*10:大阪市(1955)「大阪市政だより」第104号 pp.2

*11:大阪市婦人団体協議会(1956)「みおつくしの鐘 : 建設の記録」

*12:『毎日新聞』1955.5.6朝刊「卅万母親の祈り実る-子供守る“愛の鐘”完成す」

*13:大阪市(1956)「大阪市政だより」第116号pp.2

*14:池袋にあった東横百貨店の宣伝チャイムを使おうとしたのがどうもまずかったようです。

*15:『毎日新聞 』1957.6.27朝刊「騒音対策委で“待った”-夜の池袋に「愛の鐘」計画」

*16:『毎日新聞』1957.08.12 東京朝刊 警視庁:半減した補導少年-池袋…三週間の効果

*17:当時と現在では事情が違うにしろ、都市部でも日に複数回、ミュージックチャイムを鳴動させていたことがここからわかり、当初想定していた都市部・農村部説明は異なっていたことがわかります。

*18:こちらは群馬県安中市の事例と混同しておりました。渡辺浦人氏によるオリジナルメロディーです。訂正いたします。なお、鳴動時間は1日3回です。

*19:『毎日新聞』1958.10.30東京朝刊「警視庁:街に高まる“愛の鐘”運動-みおつくしの鐘、三年前に大阪に」

*20:もちろんそれ以前から「愛の鐘」は各地に広まっており、確認できるなかでは、旭川市、新潟市、福岡市、松山市、栃木県小山市などの地方都市でも「愛の鐘」が設置されていました

*21:『毎日新聞』1958.11.17「“愛の鐘”全国に-青少年問題協議会で取上げ、推進へ」

*22:『毎日新聞』1958.11.01朝刊「『愛の鐘』をニッポン放送で電波に」

*23:『毎日新聞』1959.01.20 東京朝刊 「事業:『愛の鐘』メロディーを募集」

*24:『毎日新聞』1959.03.10 東京朝刊 「 『愛の鐘』作曲-川崎の渡辺好章さんら入賞」

*25:『毎日新聞』1959.03.31 東京朝刊 「レコード:『愛の鐘』メロディー-吹込み」

*26:https://www.youtube.com/watch?v=D0CrGzMYKTo

*27:『毎日新聞』1964.08.19東京朝刊「葛飾区:愛の鐘のPRポスター-新宿中学生の作品」

「オータム」を探して ①

奥多摩町は現在、朝7時と夕18時に地域防災行政無線を利用してミュージックチャイムを流しています。
その曲名は「オータム(autumn=秋)」ということ以外、ファンコミュニティでは一切不明なまま現在に至っています。それは奥多摩町でも同様のようで、担当者の方曰く「当時の資料が一切残っていないので、作詞者や作曲者を含めて詳細は不明である。」とのご回答をいただきました。
しかし、現に音楽として「ある」以上、そして行政が採用している以上、なんらかの経緯を持っていることは間違いないはずです。なんだこの曲、ということで、正体をさぐるべく奥多摩町の行政資料や郷土資料を調査してきました。

結論
…アジア太平洋戦争とその戦災に関係のある音楽ではないか、以外、わかりませんでした

まず、この「オータム」という曲が初めて資料に登場したのは、
奥多摩町,(1995年),「愛宕山に「平和の鐘」を建立」,『町報おくたま』,No.489,pp.2
です。
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詳しくはこれをご覧いただきたいのですが、1995年に町制40周年と敗戦50年を祈念して建立した「平和の鐘」に流した音楽として「オータム」が奥多摩町の資料に初登場します。ところが、この記事には詳しい情報がまったく載っていません。鳴動時間が午前7時と午後17時以外手がかりは不明です。しかし、「平和の鐘」として、故木村量平氏(詳細は後述)ゆかりのものとしてこれが建造されている以上、そのどちらかに献奏された音楽である、と推察することは可能です。その後、地域防災行政無線の稼働後にそちらへ移行したようで、以下の記事にその言及がありました。左下をお読みください。

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では、奥多摩町と戦争、あるいは木村量平氏について資料の調査へと方向を定めてみましょう。
ところで、youtubeに投稿された動画から、以下の気になる記述を見つけました。

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「平和の鐘」が戦争顕彰を目的としている、ということで、奥多摩町と戦争に関係する記述を探すと、青梅市史と奥多摩町史に以下のような記述がありました。
青梅市史は、
「二月二十五日(昭和20年)、P51戦闘機の編隊が市内上空を通過した際、そのうちの一機が突如、東青梅駅に停車中の電車を銃撃し、その一弾が氷川村(現奥多摩町)の在住の都立第九高女(現都立多摩高校)の二年生に命中し即死させるという悲惨事がおこっている。」
奥多摩町史は、
「勤労動員学徒トシテ、通勤ノ途中、電車内ニ於テ敵機ノ銃撃ヲ受ケ、両下腿複雑骨折ノタメ死亡ス」、
と、当時氷川地区に居住していた都立第九高等女学校に通う女学生が、勤労奉仕のため乗車していた青梅線電車内で機銃掃射にあい、そのまま亡くなった、という事件です。奥多摩町が空襲の被害にあったのは1945年8月14日深夜に古里地区に対して行われたものが唯一で、電車に対するものはありませんでした。事実と相違*1する箇所がいくつかあるのですが、仮にこれが適切だとすれば、この事件を指しているのだと考えられます。

そこで、新聞記事から地域で戦争被害について顕彰した動きはないか調査をかけてみます。朝日新聞検索データベースから、「奥多摩町 機銃掃射」など関連するワードを検索しました。
結果は、何も引っかからず。平和の鐘に関する記事すら出てきませんでした。

さてもう片方の方針である、上記記事に登場する木村量平氏について調べてみました。この方はどのような方でしょうか。奥多摩町の氷川地区には現在も氏のご自宅が残されているのですが、町報にもある通り、現在ではすでに故人です。ご経歴を記述すると、以下にまとめることができます。
奥多摩町氷川地区に生を受け、旧制山形高等学校卒業後に東京帝国大学経済学部経済学科に進学。卒業後は生命保険会社勤務を経て満州に移住し、現地で南満州鉄道関係の職務に携わる。敗戦後はソ連の抑留を受けた後に郷土の発展に尽くした、という人物です。まさに郷土のエリートと言える方です。著述活動としては、評論等を新聞に寄稿、あるいは詩作活動を続けていており、自身の評論活動や詩作活動の記録をまとめた「奥多摩の奥から」と「続 奥多摩の奥から」を刊行しています。

その「奥多摩の奥から」と「続 奥多摩の奥から」を読むに、「オータム」に関連する作品を見つけることはできませんでした。両著作には詩作活動の集成もあるのですが、俳句あるいは短歌に関するものであり、歌詞に通じる近代詩作品の掲載はありませんでした。しかし、「続 奥多摩の奥から」は1985年初版ということもあり、その後の木村量平氏の活動で、「オータム」に該当する詩作活動をなさったことは否定できません。ただ、定型詩の作詩活動が主な方ですので、オータムの歌詞になるような散文詩を書いておられるのだろうかなあ…。

奥多摩町と戦争、木村量平氏双方の線から調査するに行き詰ってしまった感です。乗りかかった船ですから、ここで終わらせるわけにもいきません。できる限りの調査は今後も継続していきたいと思います。


今後やるべきととしては
奥多摩町政関係者への取材
…奥多摩町「平和の鐘」整備事業は、各課兼掌から推察するに、おそらく企画財政課主任の事業として進められていたと考えられます。当時の課長級職員の方から話を聞くことができれば、何かしらわかるかもしれません。
新聞資料の捜索
…朝日新聞地域版を調べてみたところ、青梅線電車機銃掃射事件の市民による顕彰グループが活動した等の記録は見つかりませんでした。調査対象を広げ、NDL等の契約データベースから他大手紙や地域紙(西多摩新聞か)の紙面調査をする必要は引き続きありそうです。
の2つが挙げられます。爾後も調査は続けていきます。

なお、ウルトラCとして3番目の
故木村量平氏に聞きに行く
もあります。
青森県には便利な土地があり、その地で死者と会話ができるそうです。これは期待ですね。

蛇足ですが、
● JASRAC歌曲検索でもこれに該当する曲はありませんでした。

いい線まで来たとは思うのですが、まだまだ道は遠そうだ。



しっかしまあ、やっても1円にも、そして1本の研究発表にもならんのだよな、これ。




最後に追記ですが、新座・鴻巣市の瀟洒曲を制作した編曲者に問い合わせたところ、個人への販売はしていない、とのことでした。残念です。

*1:男の子ではなく女学生、奥多摩町内ではなく青梅市内