過度に適度で遵当な

在日日本人

野外

通っている大学の図書館にあるフリースペースで美術研究会が展示を行っていた。

このスペースはお手洗いのわきにあるから、利用したときには展示イベントへとついつい目が行ってしまう。どうやら現代美術の展覧会のようで、それにあまり詳しくはない人間だと見ていてもさっぱりだった。残念なことにゲージュツには縁がなく生きてきたわけで、それを読み込める文法は持ち合わせていない。結局そういうところから“格”が読み取れてしまうわけですね。

 

ところが、それ以上に気になったのは20分ほど真剣に覗いていて、来る学生が皆無だったこと。もしかしたらここに自分が水のみ鳥をイタズラに置いていったとしても、それがイタズラだと気づかれるのは最終日に主催者がチェックしたときまでないかもしれない。それほどまでに人気がなかった。展示ってなんなんだ。

 

主催者の趣旨を記したカードがあった。それによると「このキャンパスはキャンパスらしさにかけています。人間の息遣いもあまりありません。それは芸術味が薄いから。それをすこしでもなくそうと思い実行しました」とある。高説はごもっとも。

確かにこのキャンパスは、人間の息遣いもあるけれども、全体的に無味乾燥としている。そのうえ周辺に学生街が存在していない、住宅街にある異空間なので、大学街としての面白味も皆無。たとえば東京大学や京都大学を思い浮かべると、本郷、湯島、春日、上野公園、百万遍、下賀茂、出町、と大学周辺の町並みはそれだけで4年間を過ごしたくなるほど魅力にあふれている。そういう観点から考えると、この大学のこのキャンパスにはなんら魅力はないといっても語弊はありません。

 

そうは言っても、このキャンパスに魅力がないのは、そういう芸術味の問題ではなく、ともかくキャンパスを自身で象徴できるものがないからなのではありませんか。キャンパスのど真ん中で場当たり的に芸術作品が置かれていたとしても、それは単なる異物としか思えない。確かにこのコンクリート漬けの工業的なキャンパスに、有機的なものを置くことに価値はある。それだけで癒されるのかもしれません。最初のうちは。そのうち視界に入らなくなり、気が付いたら意味をなさなくなっている。それに、大学が大学たらしめる象徴が抜け落ちているのだとしたら、必要なのは、背景を同じくしないすべての人間が見て心のどこかしらで感慨を抱くものです。東京大学でいえば安田講堂、京都大学で言えば時計台など、あからさまな建物やモノが優れているのではないか。一般化されていない現代芸術は…、いまの段階では不適としか言えない。ゲージュツ作品が置かれているファーレ立川もしばらくしてから見てみるとどうにも陳腐化してしまったのは否めないし、立川を象徴しているのは北口の高架歩道とアーチに多摩モノレール、とつまりデカい建物でしょう。芸術は決して求められてはいない。迫力こそ真髄なり?

 

とはいえ建築学的な、社会学的な、心理学的な、そのほか効果論的なことを一切いうつもりではなかったのですが、どうも腑に落ちない気持ちが残ったわけです。

 

 

と思って感想用紙を認めてお便り箱に入れたところ、30分後にこの次が入っていたので、どうやら観覧する人間は少なくなかったようでした。ごめんなさいを言わないとなりません。